『月夜のバニー』(「桃まつり」より)矢部真弓松井宏
[ cinema , sports ]
老いてなお客を引き、ときに若い男を漁りもしよう、そんな場末の女性がバーバラ・スタンウィックを通り越してリリアン・ギッシュに近付くとき、そのフィルムは禍々しくも神々しい何かを纏うに決まっている。そもそも、ギッシュとは場末の女性以外のなにものでもないのだと、それを改めて気付かせてくれただけでも素晴らしい『月夜のバニー』は、だがそこに西部劇のフォルムさえ持ち出して、一挙に観客を惹き付ける。
血の繋がらない父、もしかしたら血が繋がっていないやもしれぬ兄と弟、言葉を失い脚を引きずる妹、イニシエーション、魔女(母親役は監督御本人のお母様のようです、失礼なことばかり書いて申し訳ないです)、レイプ、近親相姦……、こう書くと、まあなんと凄惨なお話かしらと聞こえるが、数多の優れた南部作家を思い出してもよし、まずこれは映画の強固な1ジャンル、すなわち「アメリカ南部もの」の規則に忠実に従った物語なのだ(脚本は隅達昭という方です)。監督の地元だという茨城の田舎の、あの湿気を含んだスワンプ具合を見れば、誰もが納得するだろう(そういえば『マンディンゴ』の農園主の息子も脚を引きずっていた)。
この土地の磁場は強い。その重力は大気と時間を鬱屈させる。人間同士の関係性に「深さ」ではなく、強度と危うさを併せた「どうしようもなさ」をもたらす。母と末っ子が薄暗い台所のテーブルに、何ができるでもなくただ無言に座っているショットは(同じアングルで二度ほどあった)、この世界に鬱積した塵と、どうしようもなさを見事に示す。だが陰気さからも、もののあはれからも、奇態からも身を引き剥がそうとする意志は、まず末っ子に語りを託したことから明らかだし、また彼がメジャーを弄ぶという身振りが、この世界を計測しようとする唯一の人間が彼である事実を無意識なまま示してしまうという、そんな演出からも明らかではないのか。
もしや長編用の脚本を縮めたのだろうか、やはり30分は短すぎるのか。ゆるりと流れ、時間の感覚さえ失わせる光が、この世界をさらに魅力的にするのかもしれない。とはいえ、尺の制約でそれは不可能だと言わんばかりに、矢部監督は別のかたちで、つまり、ひとつの行為を3つにカット割りして、その要求に答えを出す。かつて交わったゆえだろう、兄に触れられるのさえ嫌悪する妹が、ある理由ゆえに登った屋根から降りようとする。そこには兄が待ち構える。彼はまるで馬上から降りる貴婦人といった体で、彼女を抱え降ろしてやる。そう、ひとつで済むはずのその行為を、監督は3つのショットの連鎖で描き出す。決定的な瞬間である。逆説的とでも言えばよいのか、驚くべし、そのときひとつひとつのショットが素晴らしい持続を獲得し、このフィルムの時間がもっとも無時間的に「ゆるり」と広がり出す。この世界の重力を一瞬停止させるその「呼吸」。つまりそれは『月夜のバニー』の希望であり、同時に『月夜のバニー』を、大きな希望たらしめるものなのだった。
桃まつり presents kiss ! 3月14日(土)~3月27日(金) 渋谷ユーロスペースにて連日21:00より!