『フロスト×ニクソン』ロン・ハワード結城秀勇
[ cinema , cinema ]
ボクシングの試合に見立てられたふたりの男のパフォーマンス。そこに賭けられているものはなにか。前代未聞のインタヴューの為に動く巨大な金、そのために一喜一憂してみせる人々の俗人ぷりが単なる韜晦でしかないことに観客はすぐ気付く。『ボディ・アンド・ソウル』、『ハスラー』、あるいはハワードの『シンデレラマン』などを引き合いに出すまでもなく、そこにあるのは栄光、たぶんアメリカと呼んでもいい栄光だ。ここに見られる老練な技術と若々しい勢いとの対決という構図にもかかわらず、『フロスト×ニクソン』は新旧の交代劇ではない。彼らの戦いにおいてなにかがなにかに取って代わられるというようなことはなく、また受け取るに値するなにかを巡ってそれを受け取る資格を持つふたりの人間が向き合うのでもない。ここに賞金としておかれたものは、既に失われた栄光/アメリカである。自らの失策/犯罪によってそれを失墜せしめ失ったニクソンにとってそうであるばかりではなく、イギリスとオーストラリアのテレビ番組の人気司会者として名を馳せるフロストにとっても、アメリカはこれから開拓すべき新大陸として現れるのではない。なぜこんな無謀な試みを行うのか、という問いに対するフロストの回答を聞けばそれがわかる。「ニューヨークを去るときの気持ちが君にわかるか」。
その見た目にもかかわらず、ふたりは既に老い、疲労し、敗北し、間違っていた道を歩んできた同じ人間なのだという解釈が、ニクソンの口を借りて語られる。決してその栄光を受け取るに値しないふたりの男による偽タイトルマッチ。決められたスケジュールに沿って淡々と進んでいくかのような、第三者の証言を交えてのなめらかな語り口の途中で、ぽっかりと空いた穴のようにフロストとニクソンのプライヴェートな会話(あるいはニクソンの独白と言うべきか)は置かれている。我々は共に敗者なのだからどちらかが勝たねばならない。その言葉にかかわらず、最後に残るのが大いなる敗北に過ぎないことを観客は知る。敗北を写し取ったクロースアップこそが歴史を変えたのだと。この作品の元になった舞台劇において、この敗北のクロースアップはどのように演出されていたのだろう。