『四川のうた』ジャ・ジャンクー梅本洋一
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こうした偽ドキュメンタリーというスタイルは、とりわけ、このフィルムの内容には合致している。8人の労働者たちが成都の420工場について語る、という構想は説得力がある。綿密に書き込まれたテクストと、おそらくかなりの時間をかけただろうリハーサル。挿入されている工場や成都の映像。「知的」という言葉がこれほど当てはまるフィルムを見るのは、本当に久しぶりのことだ。誰でもトリュフォーの『野生の少年』を思い浮かべるに違いない。ナイーヴだった高校時代のぼくは、『野生の少年』をドキュメンタリーだと思ってみてしまった。映画誕生以前の物語なのに、それをドキュメンタリーだと感じる無知とナイーヴさ!
『四川のうた』は、その骨相の面では、確かに『野生の少年』との類似は見つかるだろうが、『野生の少年』が、そこにイタール博士と狼少年の交流の物語を見事に見せているのに対して、『四川のうた』は、そこに登場する人々の背後の物語が見せられたりはしない。それらが語られるだけだ。もちろんかつての写真によって、その物語に信憑性が加えられたり、多くの人々が感じるように、聞こえてくる数々の「うた」によって時代が立ち上がってくることはあるだろう。特に音響──しかも「うた」によって時代が立ち上がってくるのは『青の稲妻』『プラットフォーム』というジャ・ジャンクーのフィルムでぼくらが何度も立ち会ったことだ──の精緻な設計によって感情の起伏が生起する瞬間は、このフィルムの白眉とも言えるだろう。それに対して映像は、徹頭徹尾、現在の成都と登場人物たちを捉えようとする。音を持っていなかった時代の映画とは、他のどんな目的よりも、人やものを「かつてそこにあったもの」として捉えようとする。世界に散ったリュミエール・キャメラマンが同時代の世界で捉えた映像を、今でもぼくらは、過去の事実として確認しているように。
リュミエールと書いたが、そのリュミエール兄弟が、1895年12月28日に、パリのグランカフェで行った上映会で上映した10本ほどのフィルムで、一番最初に来るのは、周知の通り『工場の出口』である。工場の門が捉えられ、そこから出てくる人々を固定キャメラが捉えた1分に満たない映像が、現在までの映画の発展のきっかけになっている。
そして、『四川のうた』もまた、何度も何度も420工場の出口が映し出され、だんだん420工場が解体されていく様子が、その出口の上方に据えられたキャメラが俯瞰で見つめる眼差しで映し出されている。映画史と中国の歴史がここに合成されている。そして同時に、ここに自らの物語を語るかつての工員と関係者たちが、実は、優れた俳優たちであることをぼくらは理解し、この映画もまたフィクションであることを納得する。リュミエールとは別の方向に映画を発展させた人物ジョルジュ・メリエスという氏名が思い出され、それまでのジャ・ジャンクーのフィルムに時折発見されるファンタスティックな側面を見いだすことになる。
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