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May 28, 2009

『夏時間の庭』オリヴィエ・アサイヤス
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 『冷たい水』の美しさが、ふと目を離した瞬間に消え去ってしまうヴィルジニー・ルドワイヤンの纏う無垢≒フィクションの淡い色彩によって生み出されていたとして、しかし近年のアサイヤスの「女たち」によるフィルム――『DEMON LOVER デーモンラヴァー』『CLEAN』『レディ アサシン』――の基軸となるのは、「女たち」にとって、すでに失われてしまったルドワイヤンの「無垢」なるものを、どのように生きかえせば良いのかという絶望的な葛藤だった。絶望の渦の内部で新たな渦を己の身体を犠牲に形成するコニー・ニールセン、自らの生を奪還するための歌を響かせようと走り出すマギー・チャン、超えられたかもしれない決定的な一線で踏みとどまることを選択するアーシア・アルジェント……。ルドワイヤン=フィクションの彼岸の存在として唐突に世界に投げ出された彼女たちは、どのように自らの生を生き直すかについて、答えの存在しない問いに立ち向かい続けなければならない。
 シャルル・ベルリングが『夏時間の庭』において最初に立つ場所も同じだ。エディット・スコブという神話的な存在によって召喚された、幾多の有り得ない記憶=物語を内包する家を、その以後の存在であるベルリング、そしてジェレミー・レニエとジュリエット・ビノシュがどう引き継げばよいのか、記憶そのものとしての家にどのような視線を投げかければよいのか。それぞれの家族が帰路につく様子を見送ったのちに、石段をゆっくりと昇るスコブの姿、あるいは光の失われた部屋の椅子に静かに沈みこむスコブの姿にある「幽玄」とでもいうべき身振りは、決定的にベルリングらから剥奪されているものであり、彼らのエモーションの煌めきは決して『夏時間の庭』の被写体ではない。とりわけベルリングが流す2度の涙が自動車のフロントグラスの太陽光の反射とベッドルームの暗闇によって不可視のものとされていたのは、スコブとベルリングたちを別世界の住人として扱うための、アサイヤスの明瞭な線引きであったように見える。
 当然のように、彼らはスコブの生を、彼女の残したものを継承することはできない。しかしその一方でアサイヤスは、ベルリングを――そしておそらくは自分自身を、あるいは観客を――彼女と繋ぎとめるための方法として、その娘を越境者とすることを選ぶ。紛れもなく『冷たい水』のルドワイヤンが――あるいは『8月の終わり、9月の初め』のミア・ハンセン=ラブが――重ねられているだろうその娘は、その家の記憶をヒップホップとロックンロールによって「踏み躙って」いるかもしれない。だが、しかし祖母の語った風景についての物語を口にし、塀を超えて草原を走りだすことによって、新たなイノセンスを生みだそうとするためにもその儀式はおそらく必要なことなのだ。『夏時間の庭』は、「女たち」の絶望とともにあったいくつかの物語を経由したのちに、再び『冷たい水』の生み出していた「何か」に近いところへと立ち戻るための、アサイヤスのきわめて自己言及的な身振りを有したフィルムであるように思う。
 しかしそうであるとすれば、この『夏時間の庭』のラストショット、まるで一枚の風景画を描くようなエリック・ゴーティエの幸福な俯瞰撮影に対して、私たちは恍惚とするばかりではいられないのではないか。かつて『冷たい水』において唐突に目の前から消え去ってしまった「無垢」に対する少年の困惑と同じように、今後のアサイヤスの道程は、そして現在においてこのフィルムを見る私たちの在り方というのは、このラストショットをどのように「切り返す」かにかかっているはずだ。エドワード・ヤンの『恋愛時代』のエレベーターにおけるあの「美しい」ラストシーンに対する困惑と同じものを、いま私たちはこのラストショットに感じるべきなのかもしれない。

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