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June 4, 2009

『持ってゆく歌、置いてゆく歌―不良たちの文学と音楽』大谷能生
梅本洋一

[ book , cinema ]

 もっとも旺盛な活動を示している批評家が大谷能生であることは明らかだ。大きな書店に行くと、必ず彼の本が2冊以上平積みにされている。若い批評家──もちろん彼は音楽家でもあるが──の書物が、数ヶ月間に次々に出版されることはわくわくするような体験だ。『散文世界の散漫な散策──二〇世紀批評を読む』(メディア総合研究所)、瀬川昌久との対談本『日本ジャズの誕生』(青土社)、そしてこの『持ってゆく歌、置いてゆく歌―不良たちの文学と音楽』(エスクァイアマガジンジャパン)。昨年末から現在までで3冊の彼の本が出版されている。季刊誌のようなリズムで彼の書物が出版されている。
 大谷能生の特色は何だろう。とても良い意味における啓蒙だ。啓蒙というと「上から目線」みたいでちょっと嫌な感じが普通はするのだが、大谷の場合、これ見よがしに「俺は知っているゾ!」と振りかぶるのではなくて、こんなことを勉強していると、こうやって別の世界が開けてくる。だから、一緒に別の世界に行ってみようよ、という感じ。だから、旅行ガイドが啓蒙書であるのと同じ意味で、大谷能生の本は、とても啓蒙的なのだ。もちろん旅行ガイドだって、面白い旅行ガイドとつまらない旅行ガイドがある。大谷の本は、すごく面白い旅行ガイドだ。彼の本に「散策」というタイトルが付いているように、毎日見ている光景でも、そこに立ち止まってゆっくり観察してみると、それがまったく別の光景に見えてくるように、彼と一緒に「散策」すると、それまで既知だと思ってばかりいたものが、実は未知だったりする。
 そして、彼が立ち止まる地点に一緒に立ち止まっていると、彼がどんな光景を選ぶのかも分かってくる。たとえば、文学者に関わる音楽を論じたこの本で彼が選ぶのは、中上健次とジャズなど、ちょっと当たり前すぎるものもあるけれども、ボリス・ヴィアンとデューク・エリントンや、レーモン・ルーセルをめぐる音韻論など、多くの人が知ってはいるが、論じたことのない対象に丁寧に踏みとどまって、その世界の地図を彼なりに書いている。丹念な人脈図まで出てくる。それは、『散文世界』で、蓮實重彦や宮川淳という一時代を画した批評家の文章と一緒に平岡正明や吉田健一を並べるのと似ているだろう。(あの本は、彼の連続講座を書籍化したものだが、随所に織り込まれた「朗読」というやり方がすごく良かった。)
 80年代だったら、かなり多くの人たちが読んだ本が、日常的に若い人たちに接していると、ほとんど忘れられていることに気づかされる。出版を巡る構造的な不況やほとんど「鎖国」のような今の日本の文化を巡る状況が反映しているのだろう。手軽な「人生論本」や「自己啓発本」、それと同じくらいに薄っぺらな新書の数々を除くと、皆、本当に本を読まない。つまり、散歩も旅行もしない。そんな中で、大谷能生の本がたくさん出版されることは良いことだ。実は自分たちを作っている要素にはなっているけれども、そんなことは皆が忘れている場所に懸命に立ち止まって、それがとても面白いものであることを証明してくれるからだ。そんな彼の方法について考えているとき、晶文社のウェブサイトで彼が連載している「植草甚一のいた時代」を通読してみた。植草さんが昔やっていたことと、大谷能生が今やっていることが、とてもよく似ていることに気がついた。