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June 9, 2009

『4』『マイムレッスン』『スパイの舌』三宅唱
田中竜輔

[ cinema ]

 とりあえずは「習作」に近い3本の短編なのかもしれないが、ずいぶん前からその噂を耳にしていた三宅唱監督の作品を見て、率直にとても興奮させられた。
 21歳時の作品であるという『4』の、ホテルのひと部屋に詰め込まれた4人のそれぞれの時間における持続感覚(とりわけほとんど異物である外国人女性の「空気の読めない」些細な仕草が「彼ら」の時間についての共有感覚を明瞭に分断しているようだった)にまず舌を巻いたが、しかしそこから一年のスパンで作られたという『マイムレッスン』においては、すでに彼の野心と呼ぶべきものがすでに主題として真正面から捉えられていることに驚く。共同生活を送る男ふたりと女ひとりが、来るべきステージのためのパントマイムの「レッスン」を続けるなかで、やがて彼らの「レッスン」は気づかぬうちにその中間に挟み込まれた窓ガラスを越えてしまうも、しかし「レッスン」は終わらない。その極めて微妙な一瞬の越境において「レッスン」は来るべき特別な瞬間を待望するための時間ではなく、それ自体がそれ自体のために奉仕する「普通」の時間になる。すべてがレッスンであり同時に本番であるような、そんな「普通」の時間を映し出すことこそが、三宅唱監督のフィクションについてのひとつの視座であるのではないか。
 ナレーションによって多層化された音声と短いカットの集積によってスピーディかつ複雑に構築されたCO2オープンコンペ部門最優秀賞受賞作品『スパイの舌』だが、しかしここでもただスピーディな映像の実験めいた遊戯が目論まれているわけではない。方法や物語こそ過激でありつつ、しかしその上で「普通」の映画を生み出すための、ある包括的な視座を生み出すこと。スパイであるはずの女が、実はスパイされる側の人間であることに気づくことに始まる『スパイの舌』の錯綜した物語は、まさに『マイムレッスン』のガラスをめぐる演出の延長線上にあるだろう。「スパイ」は特別な存在ではないのだ。丸の内の屋外から東京メトロのエレベーターに乗り込んで脱出するシークエンスの巧みなリズムや、舌を奪われた女スパイの腹のエロティックな曲線をアクションシーンのショットの連鎖の内部で際立たせる手腕も、ある「特別」な瞬間を生み出すものとしてではなく、あくまで映画全体の持続を生み出すための時間として紡がれている。「誰かが」スパイなのではなく、「誰もが」スパイでありうるものとしての世界、『スパイの舌』のこの過激な「普通さ」のネクストステージとしての、三宅監督の手による長編作品を早く目にしてみたい。

CO2 in TOKYO '09 池袋シネマロサにて12日(金)まで開催