『私は猫ストーカー』鈴木卓爾黒岩幹子
[ cinema ]
『私は猫ストーカー』、そのタイトルに偽りなし。これは「猫好き」じゃなくて「猫ストーカー」の映画だ。「猫好き」と「猫ストーカー」の違いは、猫への愛情の大きさにあるのではなく、猫との関わり方にあるのだと思う。「猫ストーカー」を自認する主人公のハル(星野真理)は、猫を飼わず、特定の猫に愛情を注がず、猫を分け隔てず、とにかく猫を探し回り、とにかく遭遇した猫を追いかける。自分の生活のなかに猫がいるのではなく、数多の猫の生活のほんの一瞬に自分が居合わせること。きっと彼女はそのような信条を持って、猫をストーキングしている。
「猫には知らない時間がある。人にも知らない時間がある。私にもあなたの知らない時間がある。あなたにも私の知らない時間がある」。劇中でたった一度だけ流れるナレーションにあるこの言葉もまた、この映画を見事に言い表している(このナレーションの語り手が主人公ではないのも絶妙だ)。この映画には、ハルが猫を探して追いかける時間がある一方で、ハルと遭遇しない、ハルの知らない猫が歩く時間がある。ハルも猫たちも彼らが暮らす“谷根千”の街を歩いている人々も、それぞれがそれぞれの知らない時間を生きている。このひとつの映画の時間に居合わせながらも、それぞれがそれぞれの時を刻んでいるように見える。それはきっとこの映画の映像や音や音楽が、そこに映る猫や人や街を映しだしながらも=その時間を記録しながらも、同時にそれとは別の時間を刻んでいるからだではないだろうか。
たとえばこちらに向かって歩いてくる3匹の猫をローアングルでとらえた1ショットのなかには、それぞれの猫の動き、歩く速度があるだけでなく、猫とカメラを横から追い抜いていくおじさんの自転車の速度や車輪の音、後ろからやってくる(が、猫には追い付かない)お婆ちゃんの杖の動きや歩く速度もそれぞれの速度や運動としてあって、さらには画面には映らない何かの物音が聞こえ、それらの物音と一緒に音楽(劇伴)が聞こえる。ひとつのショットのなかにこれだけの要素がありながら、何ひとつとしてほかの要素に付随するものとして出てきていない、それぞれの運動や音が独立して存在している。が、それらがひとつのショット=ある時間に、同時に居合わせている不思議。「映画」であるからには当然のことかもしれないが、それを不思議に思わせる場面が、この映画にはある。
それはたぶん、この映画が撮影された時間が画面や音から感じられるから、その時間がハルや猫たちの知らない時間として同等に存在するからだと思う。無意味な街の遠景や空を切り取ったショットがないのも、そのような意図によるものだろう。たとえば、宮崎将が斜め上を見上げ「今日も良い天気だなあ」と呟いても、空は映し出されず、彼の横顔に光が射して陰影が変化する様が捉えられる。そういうショットがとても良い。
だからこそ、ただひとつ腑に落ちなかったのが、1ショットだけ猫目線と捉えるしかないショット――寝そべって猫に指を差し出す主人公たちを、猫がいる側から手持ちのローアングルで捉えるショット――があることだ。私には、上に書いてきたような性格を持つこの映画にはふさわしくないように思えたのだが、あのショットは必要だったのだろうか?
7月4日(土)よりシネマート新宿にてロードショー