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June 26, 2009

『ランニング・オン・エンプティ』佐向大
結城秀勇

[ DVD , cinema ]

 その構造を剥き出しにして得体の知れない煙を吐き出し続ける信じがたく巨大な建築物の群れから、小さなアパートのベッドの上で寝そべる女性のピンクの下着を履いた尻へとカットが切り替わる。前者はどことなく『Clean』の冒頭を彷彿とさせるし、後者は『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソンのケツに勝っている。それがなんの仲介も無しに結びつけられる、一足飛びの移動の速さの中にこそ『ランニング・オン・エンプティ』という映画を通底する視点がある。いやそれを速さと呼ぶことが既に間違いであるかもしれなくて、その両者の間にどれだけの距離があるのかはわからないのだから見る者がそれを速度だと感じることはできないはずだし、もしかしたら佐向大はそれは別のものですらない、同じただひとつのものだと呟くのかもしれない。
 工業製品の生産、輸送といった個々人の欲望や必要を超えたところで行われる馬鹿げたほど巨大な営みの前で、取るに足らない個人の、陰謀と呼ぶにはあまりに凡庸で陳腐な小さな物語が動き始める。一緒に暮らす彼氏から現金をだまし取ること。「働きもしない」彼氏から盗み取る金が結局は自分が稼いだ金と変わりないという自明の事実に女は気づくこともない。だが身勝手で浅はかなのは彼女ばかりではなく、あらゆる登場人物が自分のことばかり考えているのだ。その自己撞着は不愉快なものというよりはむしろ滑稽でたわいもないこととしてある。働きもせずなにもしない主人公を批判する人々が、いったいいつどう働いているのかを観客は知ることもない。
 知り合いの知り合いもまた知り合いであるような非常に小さな集団の重なり合いが織り成す前半の室内劇から、タイトル通り確かになにかが走り出す後半に至って、小さな物語はその小ささのままでその感触を変えてゆく。ありふれた三角関係は、どろどろとした家庭環境へとつながっていく。佐向作品の真の常連ともいえる異形の者たちが姿を現し出す。しかしやはり、全体として滑稽なものは滑稽なまま、取るに足らないものは取るに足らないもののまま連なっていくだろう。ここへ来て、この文章のはじめに書いた対比そのものが間違っていたことをやはり認めなければならない。巨大な背景と卑小な前景とは別のものではなく、同じひとつの全体を為す。
『まだ楽園』のどこへも続かず決して終わらない道路の上で空転するかのようなタイヤのイメージに、「Running on empty」という言葉は非常にしっくり来る気がする。だが『ランニング・オン・エンプティ』の射程は『まだ楽園』のそれよりも遙かにレンジが広い。ここには、ジャクソン・ブラウンが歌ったような、巨大なものを前に走り続ける小さな人間がいるのではない。『ランニング・オン・エンプティ』にあるのは、ちっぽけすぎる人間も巨大すぎて見えない世界もひっくるめた何の目的もないシステム、その全体が空虚な基盤の上で稼働する姿だ。
 工場の音、車の音、飛行機の音、携帯電話の声、カーステの音楽、銃声、そうしたものが画面に満ち満ちた後でふと訪れる静寂。そこには「おれとおまえは違うんだ」という言葉に対する「当たり前だろ」という返答にも似た過酷さがある。


今秋、池袋シネマ・ロサにてレイトショー予定