『それでも恋するバルセロナ』ウディ・アレン茂木恵介
[ book , cinema ]
ヴァカンスを楽しむために訪れたバルセロナ。季節は7月。紋切型の記号としてちらっと映るガウディやミロ。そして、女性を惑わす赤ワインとスパニッシュ・ギター。それらは、主人公の2人の側に寄り添いつつも物語の流れに絡み付くことなくちらっと映り、次のショットへと切り替わる。おそらく、この映画の中で記号として重要な意味を持つのは彼女達を迎え、そして送り出す空港のエスカレーターだけだろう。空港の入り口から出た彼女達が過ごすバルセロナに決定的な意味はまるでない。しかし、スクリーンでこの作品を見る僕たちの中では、彼女達が降り立つバルセロナは彼女達の背後に霞んでいるものだけではないもののイメージに紐づけられている。そして、そのイメージの欠如はこの作品が今年公開されたことでより大きな存在として物語とは関係なく存在している。
この映画の舞台がヴァカンスの季節のバルセロナであるというナレーションが極めて重要だ。というより、ナレーターが告げる情報が重要だ。この映画でのナレーションが告げる情報(都市の象徴や人物の特徴)は物語を支える前提条件として機能すると同時に、フレームから排除される。だからナレーターが時間と場所を告げた瞬間から、バルセロナという都市が持つイメージは物語・フレームから遠ざけられていくことになる。7月、8月の2ヶ月間。カンプノウでの熱気がマーケットの熱気へと変わる季節。街は観光客で賑わう季節。そうした都市の季節と共に変化するある種の温度はフレーム外へ消えてゆき、それとは関係ないところで観光客であるヴィッキーとクリスティーナは熱を上げる。そしてその熱気だけが最終的に残る。しかし、彼女達は観光客である。彼女達はこの映画の中から彼女達の背後に映るガウディやミロのように次第にフレームの外へと追いやられ、観光客ではないハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの元夫婦の姿と彼らの住んでいる・住んでいた空間しか映らなくなる。そして、その空間は都市が持つ特権的なイメージを一切引き受けていない空間である。そしてそこでスペイン語を話す彼らもまた、スペイン語も話す人物としてしか機能せず彼らの国籍やバルセロナの住民であるという証拠は一切ない。 ヴィッキーの親戚の女性の言葉を信じるしかない。そして彼女の存在自身もまた、物語の冒頭でナレーターは告げられた存在だ。ヴィッキー達がバルセロナに訪れたのはバルセロナに遠縁の親戚がいるから、と。
だから、この映画の中で一度たりともカンプノウやバルサのユニフォームを着た者が出ていないことに目くじらを立てるのではなく、サルトルがかつてユダヤ人について書いた文章のようにとりあえずは「ここはバルセロナで、今はヴァカンスの季節だ」とナレーターが告げるのだから、「そうか、ヴァカンスの季節のバルセロナね」と思い込んでみるべきだ。でも、それでも恋するのがバルセロナだったというのは信じなくても良いかもしれない。
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