『サブウェイ123 激突』トニー・スコット結城秀勇
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原題は『THE TAKING OF PELHAM 123』だが、そのハイジャックされた車両が「ペラム123」と呼ばれているのはペラム駅を1時23分に出発したから、というただそれだけの理由である。なぜその車両が狙われなければなかったのかと言えば、その名の通り時間帯とコースが適当だったということに尽きて、それが劇中で話題にされる日本製の新型車両なのか、なにか他の車両と違った視覚的特徴を持つのか(そんなものはないわけだが)などということは問題にならない。
しかし、状況を展望する監視システムにおいては「123」の文字をふられた四角のアイコンは明確な識別性をもって映し出される。複雑怪奇な運行システムを監視する巨大なダイアグラムは『デジャヴ』におけるあらゆるものを見通す視点に近いと言えばそう言える。ここにもトニー・スコット的な世界を把握するための/構成しているメディア像があるのだと。だがこの映画でコントロールセンターに座るデンゼル・ワシントンやわれわれの目は停止する「123」の文字の上に釘付けになり、それが本来システム全体の中でどのような有機的な動きを示すものなのかを知ることはない。そして全体を把握するはずのスクリーンを前に、事件の現場と直接コンタクトをとることが出来るのは一本の電話(正確には無線)といういかにもアナログな通信手段だけだ。
超巨大な視聴覚システムを使ってひとりのアマチュアが何かに立ち向かう、という要素はこれまでのトニー・スコットの作品内でも散見されたものではあるが、『サブウェイ123』のアマチュアリズムはそれとは決定的に違った部分を持っている。世界にウン十万人、ウン百万人いるだろう、電話を受けては何の判断も下さず上司に決裁を仰ぐオペレーターのひとり。それを上回る権限はワシントンに与えられていない。その領分を超えて動き出すワシントンの行動を裏付ける「責任」あるいは「正義」など本当にあるのだろうか? ある事件が起きてそれに対処するひとりひとりが持つはずの、ヒーローあるいはアンチ・ヒーローたる資格がここでは少しずつ根絶やしにされていく。つまるところ、善人も悪人も皆、ほとんど取るに足らない人間ばかりなのである。
そしてデンゼル・ワシントンがさまざまな「お偉方」を自分の仕事場に迎えたときに彼の仕事を説明する唯一の仕草、「青いボタンが通話スイッチです」と言いながらボタンを押すという極めて単純な末端の動きこそが、この映画の焦点となる。スクリーンの上で停止してしまったデジタルの「123」という表記を、現実の交通の流れの中に放り出すこと。だから『サブウェイ123』の主役とは、ワシントンでも彼に非常にそっくりなジョン・トラボルタでもなく、まして「ペラム123」と名付けられた一台の特別な地下鉄車両でもなく、道を埋め尽くすタクシーや白バイを含めた車両であり、事件の真横でもなお麻痺することなく動き続ける他の地下鉄であり、ほとんど何の必要もなく呼び出されるヘリコプターなのである。それらがいったいどんな思惑のもと動いているのかなんてどうでもいい。ほとんど何の正当性もないままにそれらを動かしてしまうその力に、映画というものを見てしまう。