『ディア・ドクター』西川美和梅本洋一
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一昨年『ゆれる』で大方の好評を博し(ぼくは批判的だったが)、その原作が直木賞候補にもなっている西川美和の『ディア・ドクター』を見た。主演の笑福亭鶴瓶は、封切りに際して西川美和とテレビに出まくっていた。
物語を記すと「ネタバレ」になるので書かないが、それ以外にいったい何を書けばいいのかと頭を抱えざるを得ない。笑福亭鶴瓶と瑛太の組み合わせもつまらないとは言わない。たったひとりの「医者」しかいない村に真っ赤なBMWのオープンカーで研修に訪れる瑛太の姿から、このフィルムが開始されるが、「映画的」なのは、おそらくそこだけだろう。田園風景が続く村を真っ赤なベーエムが疾走するのは痛快だが、その村の住民たちも、その村の村長を始めとする関係者も、そして、瑛太自身も、まったく「本当らしさ」が感じられない。誰もが好演だと感じるだろう、子持ちの看護婦・余貴美子と村でひとりで暮らす老女・八千草薫の娘の医師役を演じる井川遙(彼女は『トウキョウソナタ』でもすごく良かった)を除いて、どの登場人物も類型的で、物語を進行させる吊り人形のようにしか見えない。鶴瓶の演技を思い出せば、相米の『お引越し』における彼の好演を覚えているぼくとしては、彼に二重性のある役を負わせるのは無理なのではないかとさえ思える。すべては、物語(実に単純なものだ)を運ぶために、役割を負わされた要素でしかなく、「今、そこで生きている人」を捉えることはまったくできていない。
たとえ物語が感動的だったとしても、その物語が興味深いものだったとしても、それを支える登場人物たちを信じることができなければ、映画そのものを信じることもできない。映画は撮影するものでもあるけれども、映画は物語を語るものでもあるけれども、映画は、やはり演出なのだ。その演出の不在によって、見る者は、眼前の映画を信じることができない。いらいらしている登場人物が他人と出会いたいと強く望んでいる、というシーンをどうやって演じるか、についてかつてフランソワ・トリュフォーは、こう言っている。「私は、階段を上がり、他人のドアをノックして「入れ」というのを撮るだけでは満足しません。ドアを何度もノックするが返答がなく、悲しく階段を下り、その途中で友人に会う登場人物を示すでしょう」。演出とはそういうものなのだ。
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