『ニッポンの思想』佐々木敦梅本洋一
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仲俣暁生さんのブログを読んでいたら、「カッコいいのはもう終わりでカワイイが誉め言葉だ」みたいなことが書いてあった。『思想地図』の「アーキテクチャー」特集を読んでいたら、冒頭のシンポジウムの参加者たちの発言に、磯崎新と浅田彰以外、信じがたく大きな違和感を持ってしまった。どうしてなのだろう、とずっと考えていた。カワイクなくてもカッコイイ方がいいじゃん。現状を捉えるにしても、その現状の捉え方が、ぼくが感じている現状とぜんぜんちがう。学生たちを前にしていても、そのものを知らないことについてはずっと同じだけど、知らないことや知らないものについての好奇心のなさは、教え始めた20数年前とは比べものにならない。俺が単に年寄りになったってことかな? そんなことをずっと考えていると、参考書が欲しくなる。新聞広告で『ニッポンの思想』の発行が告知されていた。著者は佐々木敦だ。すぐに840円払って、講談社現代新書を買った。80年代からゼロ年代までの「ニッポンの思想」の側にいつもいる佐々木くんの本だ。昔から佐々木くんと呼んでいたので、ここでも佐々木くん。
佐々木くんのいつもの本のようにとても啓蒙的で判りやすい本だ。それにしても、最近の新書はなんで「〜だ、〜である」調じゃなくて、「〜です〜ます」調が多いんだろう。この本もそう。
この本は、最初に「パフォーマンス」「シーソー」「プレイヤー」「思想地図」という4つのキーワードが挙げられていて、そのすべてが、東浩紀に結節していく仕組み。うまくできている。なんで東浩紀がひとり勝ちなのか、というのが問題設定。そこで、ニューアカが登場した80年代から今日まで、思想関係の佐々木くんの読書体験がとても上手に整理されて、ある種の「思想地図」が描かれている。まずは中沢新一と浅田彰から始められ、蓮實重彦と柄谷行人が論じられる80年代、大塚英志、福田和也、宮台真司の90年代、そして東浩紀のゼロ年代というのが佐々木くんの描く「思想地図」の「プレイヤー」。そして、もうひとつの隠れ主題がひらがなの「おたく」からカタカナの「オタク」への移行ということ。もともと参考書なのに、それを要約するのは、350ページを越える「新書」の著者である佐々木くんにも失礼なので、この辺でやめておく。
それで、この本は、ぼくの参考書として役立ったのか? かなり役立ったと言える。ぼくが『思想地図』に苛立ったのは、そこにある論考の多くが「完全に現状甘受」型であるからであり、学生たちの好奇心の薄さに苛立っているのは、彼らがJ文学やJポップに閉塞していき──つまり東の言う「環境管理型社会」の権力構造に気付かないからであり、だいだいぼくは日本なんて単にパスポートを持っているだけの存在でしかないのに、なぜかそれを問題だと思っている人が多かった90年代があったからであり、下北沢再開発やジャスコ的な環境を肯定しているとか思えない東の論調にぼくが眉をしかめるのは、「まじめに書いて後は海に流すしかないという浅田の『投瓶通信』理論に、東浩紀が根本的に納得がいっていない」という部分にあるのだろう。ゴダールの『探偵』を見に行ったパリの映画館に観客は5人しかいなかった。東浩紀は5人では満足できないのだろう。ぼくもアマゾンで本を買うけれども、本屋さんでジャケ買いするときの方がずっと嬉しい。
ところで、この本の著者の佐々木敦はどうするのだろう。この本の後書きでは、『未知との遭遇』という題で、「僕個人の「思想」が書かれてある筈である」と予告されている。