建築家 坂倉準三展 モダニズムを生きる 人間 都市 空間梅本洋一
[ architecture , cinema ]
やっと鎌倉に行ける時間ができた。
もともと坂倉準三の傑作であるこの鎌倉近代美術館(俗称)で、作者についての回顧展が開催されるのは2度目だが、ぼくは1度目は行っていない。だが、ここは本当に好きな空間だ。前に書いたカフェのダサさも改善されていた。「白い小さな箱」──それも宝石箱ようなこの建築は、周囲の環境も含めて、今回の回顧展のカタログで、磯崎新が書くとおり「ルコルビュジエよりもルコルビュジエ的な」ものであり、二川幸夫も言うとおり、坂倉の出世作となった1937年のパリ万国博の日本館と写真で見る限り同じ印象である。
編年体的に並べられた写真や模型を見て行くと、現代のぼくらが住む都市において、渋谷や新宿を始めとして、いかに坂倉の影響が大きいかを思い知らされる。そして、前川圀男のように、本当はオーギュスト・ペレ的だったのにも関わらず最初にルコルビュジエ事務所に就職したためにコルブの嫡子と見なされたりしたが、本当の正統なる日本の嫡子は、坂倉準三だったという磯崎の言説の見事な証明が、この回顧展で行われているようだ。ニューヨークが、ミースの影響下にあったように、日本の都市は坂倉を介したコルブの影響下にあった。だが、官制の建築家ではなかった坂倉は、今までそれほど評価されているとは言えない。これには「インプレサリオ」たる岸田日出刀の西洋建築の移入の日本化がその背後にあると磯崎は語る。
つまり、先回の宿題になっていた「坂倉準三の居場所1」が収録されているこの回顧展のカタログを読んだ。「坂倉準三の居場所2」と合わせて、極めて興味深い論考である。坂倉が後年数多く手がけた公共建築は、すでにある程度坂倉の名声が確立してからのものだが、渋谷駅周辺の計画や新宿駅西口の計画等は、官製のものではなく、いずれも東急の五島家関連のものだと言っていいだろう。先代の白馬東急ホテルも坂倉設計だとは知らなかった。当然、白馬スキー場は東急系だ。そして、彼の住宅が、官製の公団住宅でもなく、民間の小住宅でもなく、実業界の大立て者の大邸宅ばかりであるのも、戦前の財閥系の解体の後の戦後の再生と繋がっている。磯崎は、そのルーツを坂倉のパリ時代の人脈に求めている。30年代、大家の子女たちが、大金を懐にパリに留学したが、その中には、後に六本木のキャンティのオーナーになる川添紫郎や当時彼の妻のだったピアニストの原智恵子、そして岡本太郎などがいた。そこにやって来るのが、文部省の外郭団体にいたフィクサーの小島威彦であり、小島は、戦後、クラブ関東、クラブ関西といった財界のクラブを設立し、財界首脳の交流を図ったが、そのどちらも坂倉の設計である。カタログには、クラブ関東でくつろぐ坂倉とシャルロット・ペリアンの写真がある。戦後の坂倉の住宅や実業界への進出は、こうしたクラブでの交流が元になっていたのだろう。宮家の人には、クラブ関東に足繁く通った人もいるし、現皇后は、天皇と結婚以前、クラブ関東に通ってフランス料理の手ほどきを受けたという記述も見つかる。
もちろん坂倉の師匠のコルブもムッソリーニやヒットラーに売り込みをかけたわけで、坂倉の姿勢は、建築家という実にアンビバレントな存在を明瞭に示しているだけかも知れない。だが、坂倉事務所の2階に、小島威彦によって設立されたクラブ・シュメールといった「謎の組織」が戦後の日本のランドスケープの生成に大きな役割を負っていたことはまちがいない。
そして今、坂倉準三の渋谷は、京王ビルがマークシティになり、東急文化会館は安藤忠雄の副都心線渋谷駅によって取り壊され、まったく別の風景に変貌しようとしている。すでに南海ホークスの身売りによって坂倉の大阪スタジアムもない。新宿駅西口の風景も、淀橋浄水場跡地の再開発によって、最初は大きく見えたものが小ぶりにしか見えなくなった。東京日仏学院やこの神奈川県立近代美術館鎌倉館の当初からの小ささが、コルブ直系の坂倉によって、とても美しく見える。
建築家 坂倉準三展 モダニズムを生きる 人間、都市、空間
神奈川県立近代美術館 鎌倉館にて開催中 5月30日(土)~9月6日(日)