『リプリー 暴かれた贋作』ロジャー・スポティスウッド結城秀勇
[ DVD , cinema ]
『太陽がいっぱい』、『アメリカの友人』をはじめとして、それぞれ複数回映画化されているパトリシア・ハイスミスのリプリー・シリーズ中のThe Talented Mr. RipleyとRipley's Gameだが、なぜかその間に挟まるRipley Undergroundは映画化されていなかった。『トゥモロー・ネバー・ダイ』のロジャー・スポティスウッド監督によって2005年に撮影された本作はdvdスルーとして先頃発売された。
この作品をあえて積極的に見ようという動機は、バリー・ペッパーが主演であることに尽きた。「受動的な邪悪」とでも言うべきトム・リプリーの特性は、アラン・ドロン、デニス・ホッパー、マット・デイモン等これまでリプリーを演じてきた複数の俳優と比較しても、ペッパーに相応しいものに思える。冒頭の家主のノックに煩わされて目覚めたペッパーの顔に貼り付く疲労とも不安とも倦怠ともつかない表情と、そのせいでいやにぎょろついた眼(この映画のペッパーは特に、往年のクリストファー・ウォーケンに似ている)。
シリーズ第一作のタイトルが示すように、トム・リプリーという人物はTalented であるわけだが、その才能をスポティスウッドは作業の効率性として見せる。トイレの入り口を見る、近くに消火栓のホースがあるのを見つける、それを提示してカメラを切り返せば、もうトイレの中の人物は閉じ込められている。あるいは死体の処理と面倒な密告者の処分を一度に行おうとしていることを、車の後部座席に視線を転じさせるだけで示す(もっとも後部座席に死体があったのが効率的だったのかはいささか疑問だが)。勿論そうした部分での手腕を買われての監督抜擢(および『ボーン・アイデンティティ』のウィリアム・ブレイク・ヘロン脚本)なのだろうが、その結果、ペッパー=リプリーの才能は単なる幸運と紙一重なところまで平板化されている。
むしろ引き出されるべきペッパー=リプリーの才能とは、ハイスミスの原作シリーズに流れている「何者かに似ている」という要素だったのではないかという気がした。それをこの映画では当然のように「演技する才能」にすり替えて描き出すわけだが、それらは基本的にまったく異なる種類の事柄だ。『プライベート・ライアン』にしろ『父親たちの星条旗』にしろ、ペッパーの魅力はある行為のやり方よりも、行為に至るまでの状態の持続にあるのではないだろうか。そうした意味で、ロンドンとパリ郊外を舞台とするこの映画の中で、ペッパー以外で唯一のアメリカ人を演じるウィレム・デフォーとの関係にこそ掘り起こすべきものがあったように思う。まあ、彼のカツラには笑ってしまったのだが。