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September 15, 2009

『The Anchorage』C.W.ウィンター&アンダース・エドストローム
松井宏

[ cinema , cinema ]

『The Anchorage』は、何よりもまず映像を「anchor=定着」させる。共同監督のひとりであり、キャメラを廻すアンダース・エドストロームは、そもそも写真家だ。スティルをつねにフィルム撮影する彼にとって、映像とは現像なしには存在し得ない。この作品がフェード・インで始まる理由もその点にある。現像液に浸された印画紙と同じく、ここでの映像は徐々に暗闇から浮かび上がり、そして現像=定着させられる。

 キャメラのボタンを押し、事物を撮影する行為。それはエドストローム&ウィンターにとって、事物を現像させる行為をもすでに含み込む。だからこそ、ひとつひとつのショットに十分な持続が必要となる。その持続のなかでこそ、映像は徐々に現像されるのだ。ここでのキャメラは映像を与えてやるマシンだ。と同時に、隠された映像を浮かび上がらせる現像液だ。事物はそこに存在している、だからこそキャメラを向けて映像を与えてやる。だが同時に、事物はすでに自分自身の映像を持っている、だからキャメラを向けてそれを享受する。あるいはその順番は逆かもしれない。予め存在する映像を享受するからこそ、それを撮影するのだと。
 いずれにしろ、このふたつの行為を一挙に提示する媒介者。それが『The Anchorage』だ。

 ゆえにこの作品はグリオ(=口誦詩人)に近付くだろう。インタヴューによれば、主人公の女性ウラ・エドストローム(アンダースの実母)から聞いた逸話——ヘラジカのハンターが島を訪れるようになり、彼女は彼の存在に怯えていた——がこの作品の出発点だったらしい。そして彼らは、その意味でこれが「民間伝承」だと言う。語る事物を享受し、と同時に、その「語る」という行為によって事物を存在させる。グリオとは錬金術師であり、魔術師だ。
 そう、ウラという女性もまた魔術師である。歩くこと、電話をすること、椅子に座ること、魚を捌くこと。そうした彼女の「日常の」行為は、私たちにとって、まるで魔法の錬金術のように見えてしまうのだ。ひとりの人間が脚を動かせば、身体が前に進む。膝を折れば、身体が沈む。魚に包丁を入れれば、魚の身体が切れる。そのあまりの明白さが、ここでは魔法のような発見として私たちの眼と耳に現れる。
 あらゆる魔術は、だが具体的な過程をいくつも踏まねばならない。ここでの錬金術もまた、対象との距離、音の構築、人物への指示など、どこまでも具体的な作業を経ている。脚を動かせば「歩く」という映像が生まれる。膝を折れば「座る」という映像が生まれる。実は錬金術とは、その映像=観念こそを言うのではないか。そして、それを生み出すためにこそ、諸々の具体的な作業が必要となるのだ。

 そして、物語を語ること。それもまたここでは錬金術のような驚きで現れる。ではこの錬金術の実現に何が必要なのか? ウラの物語、すなわち不安やら葛藤やらは、どのようにスクリーンに定着させられるのか?
 ラスト近く、それまで数回姿を見せていた件のハンター(物語のクラッチだ)が、再びウラの家の前を横切る。そして突如、席を立ち、トイレに駆け込む彼女……。彼女が——この作品が——ついに物語を現像させる瞬間だ。だがそれを私たちが確信するために、『The Anchorage』は自然の諸要素を最大限に活用する。そう、家の外では、いつになく風が強く吹き荒れている。木の葉が大きく揺れ、波がうるさくざわめいている。世界が大きく動き始めている。そう、つまり物語とは——「不安」やら「怯え」やら「葛藤」やらは——こうした世界の具体性をもって初めてスクリーンに焼き付けられるのだと、エドストローム&カーティスは力強く示す(成瀬巳喜男の諸作を思い出さずにはいられまい)。

 こうして『The Anchorage』は、ある事実を再確認させる。映画とはひたすら具体性に寄り添うものだ。だが同時に、やはり映画は錬金術なのだと。



ロカルノ国際映画祭「Filmmakers of the Present Competition」にてGolden Leopard賞受賞。


nobody31号にて、C.W.ウィンター&アンダース・エドストロームのインタヴューを掲載。