『The World』牧野貴+ジム・オルーク田中竜輔
[ cinema , sports ]
釘なのか有針鉄線なのか、その形状の有する鋭角なイメージをスピーディーに旋回させる『EVE』、テープリールがそこら中で回転するスタジオとその中を走り回る男を部屋の中心近くに置かれたキャメラがぐるりとおよそ360度回転して捉える短い映像が、ループしながら重なり合い色合いを変えることでマーブル状の色彩を獲得していくジム・オルークの『Not yet』は、映像というものが、そして音が、まぎれもない「物質」のひとつであるという当然の事実を私たちに突きつけ、そしてまた私たちがいかに日常においてそのような微細な運動を感知できていないかを告発する。ここにはもちろん私たちの知覚についての批判的な視座もあることだろうが、しかしそれと同等以上に与えられる、まるで顕微鏡を初めて覗いた少年の喜びに似たイノセントな快楽を見逃すのは勿体ないことだ。『still in cosmos』の多重露光による色彩のモザイクとジム・オルークの攻撃的な音響の織りなす「宇宙」は、たとえば『クリスタル・ボイジャー』のループラインとピンク・フロイドの「エコーズ」が見出した、世界が裏返ってしまうような一瞬の豊かさに匹敵している。
だが『The World』という作品が捉えている射程は、より遠くまで広がっているように感じた。冒頭、雲のような不定形な影の運動に引き続いて現れる海の潮流による不規則な曲線、その上に重なるように紛れ込む白い鳥の影に驚く。『The World』の世界にはこれまで目にしたどの作品よりも具体的で明確な対象が侵入していて、映像のあらゆる要素の物質的なリアリズムを突き進めることで到達したイメージの抽象性によって構築された世界に、別種の息吹が吹き込まれているように感じた。風、火、水、土という四大元素の脈動を模したと思われる映像と音響は、決してイメージとしての世界を「演じる」為に要されているのではない。おそらく個々のイメージの集積が語ろうとするのは、いわば「創世記」というフィクションの変奏である。これは、もはや誰もがその全体像など到底把握し得ない存在となった「映像」の、原初的な「生」を問い直そうとする試みであるかのようだ。
再び雲のような影がスクリーンに浮かび、轟々とした音響が徐々に静まって映画が終わりを告げようとしていたころ、静かな雨音が耳に聴こえてきた。世界の始まりに降り注いでいるかのようなこの雨が『The World』のエンディングなのかと思いつつ席を離れ、バウスシアターの外に出た。雨が降っていた。
私が耳にした雨の音は映画の音だったのか、それとも現実の雨の音だったのか。一度しかこの映画を見ていない私にはわからない。できることなら、わからないままでもいたい。
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