『アフロ・ディズニー エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』菊地成孔 大谷能生結城秀勇
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なんだか最近、『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(平井玄)やら『愛と暴力の現代思想』(矢部史郎+山の手緑)やら、ミッキーマウスが出てくる本ばかり読んでいる気がする。そこでこの『アフロ・ディズニー』。現代社会におけるミッキーマウスが資本と消費の権化であるということについては三者とも共通だが、彼の起源についてはそれぞれ違った見立てがなされている。『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』では、『蒸気船ウィリー』にベンヤミンが見出したプロレタリアのヒーロー/ミッキーの姿が描かれるが、『アフロ・ディズニー』では彼の初主演作から既に、現代まで脈々と続く映像と音との「強シンクロ性」を高らかに歌い上げる存在であったのだと述べられる。
『アフロ・ディズニー』と題されたこの本におけるミッキー・マウスの登場シーンはここだけ。お気づきのように、これはウォルト・ディズニーの本ではない。ではその内容はといえば、著者(のうち菊地)による前書からの引用が適切だろう。曰く「視聴覚の分断/再統合という現象と発達学を結びつけ、20世紀を俯瞰する。という構えで行われた、軽狂の(擬似)人文科学講義」。そして本書がその講義の前半部分に当たること、かつこの講義が完了した時点においてもなんらかの点的な結論は見出されないだろうことは端々で言及されている。「この講義にもっとも近いのはマルチエンディングのゲームになるのではないかと思われます」(「第6章」)。従って、未だ見えぬ、というか見えないだろう結論部分である「20世紀を俯瞰する」の部分ではなく、「視聴覚の分断/再統合という現象と発達学を結びつけ」という、この講義がとった方法論について語ろう。
ここで結びつけられる「視聴覚の分断/再統合」と「発達学」というふたつの要素、その前者は「見ながら聴くことはどのくらい可能か?」というテーマとして、講義中に一貫して漂い続ける。引用される蓮実重彦の言葉、「私は映画というものは本質的に無声映画であるという仮説を持っておりまして(……)」。『戦艦ポチョムキン』(1925)から開始されるこの講義がマルチエンディング的に離散・分節しつつ繰り返し立ち戻るのは、映画もアフロもディズニーも声を手に入れた時代、初のトーキー『ジャズ・シンガー』が公開され、ミッキー・マウスがスクリーン・デビューし、サッチモがニューヨークへ現れ、ブラインド・レモン・ジェファーソンらが最初の録音を行った、1920年代後半という数年間である。この地点こそが「20世紀文化の幼児性」のはじまりである。ふたつの要素のうちの後者、「発達学」はそこから続く10年間を20世紀の「少年期」、ヌーヴェルヴァーグを「青年期」とする発達の図式を提示する。その地点を通過して50年経とうとするわれわれが老人なのか、はたまたベンジャミン・バトンばりに幼児として衰弱しているのかという問題は疑問符とともに残されたままだが、本書を一読して感じるのは、視聴覚の再統合以降の少年から青年へという成長と(繰り返し登場する「社交」というタームが暗示する)「大人」とはまったく無縁の事柄なのだということである。19世紀的な文化を切り捨てた20世紀は文化的に「大人」ではなかったのかもしれないが、「大人」であろうとすることは本質的に年齢とは関係がない。本書では「大人」であろうとする方法については述べられていない。『愛の世紀』にてつぶやかれる言葉ではないが、この時代に大人であろうとすることはかくも困難なことなのだろうか?
本書が持つ(および大谷が『持ってゆく歌、置いてゆく歌』でも展開する)ものと共通する問題体系から、nobody30にて20年代30年代の特集を組んだわけだが、そこにあったものの核心を言い換えるならば多分、「大人への憧れ」だ。いまからはだいぶ「大人」に見える20年代30年代という時代が、こんな子供じみた世界を導いたのは何故なんだろう。いまだ大人であろうとする努力は捨て去れないし、来るべきこの講義の後半がそのわずかなりともヒントになればと思っている。