『ロト』/『MUGEN』甲斐田祐輔松井宏
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2009年において1971年生れの監督の過去2作品がひょっこり公開されるのは、やはり珍しい出来事だろう。しかも中編2本。そう『ロト』と『MUGEN』は2007年『砂の影』と2002年『すべては夜から生まれる』の長編たちの間に、それぞれ作られた。
16ミリでデビューを飾り、最新作『砂の影』では、キャメラマンたむらまさきと一緒に何と8ミリで撮影を行った甲斐田祐輔。そんな「時代錯誤」的な監督が、ついに初めてビデオキャメラで撮った中編だという事実から、それらを彼のキャリアにおける「つなぎ」的な位置に置きたがる輩も多いはずだ。そして実際『ロト』と『MUGEN』にあるのは、まさに「つなぎ」という状態なのである。しかもまったく消極的な色を持たない「つなぎ」なのだ。
東京を舞台にした『ロト』の最初のシーンで、主人公は車を運転している。一方パリを舞台にした『MUGEN』の最初では、主人公は飛行機に乗っている。初端から、ある場所と別の場所を連結する=移動する彼らは、実のところ全編を通してこうした「つなぎ」の状態にある。『ロト』の男は、新たに入ってきたバイトに言う。「俺にはやりたいことがある。この仕事は単なるつなぎだ」。彼は警備員の待機所で生活をし、そこで文字通り次の仕事を待ち続ける。また彼の親戚であり上司(イースタンユースの吉野寿。その素晴らしい胡散臭さは、青山真治監督における光石研に匹敵する)は、妻の出産を待っている状態だ。「つなぎ」とは待機の状態でもあり移動の状態でもある。
だが甲斐田作品において重要なのは、そこから別の場所へ至ることや、ある結果に至ること(出産、殺人、あるいは腕立て選手権!)ではない。重要なのは、あくまでもそこに留まること、すなわち「つなぎ」の状態をいかに繋ぎ留め、それそのものをゴロリと提示するかなのだ。『ロト』は未来の一攫千金を期待させる不埒な切符=宝くじではなく、ひとつの部屋をふたつに仕切るカーテンの、そのぶっきらぼうな姿に近い。あるいはそれは『MUGEN』の主人公たちが向かいの建物の部屋を盗撮するために据える、ビデオキャメラに近いかもしれない。それによって彼らは、あくまでも向こう側と距離を保ちつつ、そして自らの「つなぎ」の状態を繋ぎ留める。
とはいえ、そうした状態を無限なまま引き延ばし、楽天的に遊戯しつづける傲慢さもまた、ここでは斥けられるのだ。「つなぎ」の状態とは甲斐田祐輔にとって、あくまでも束の間の状態であり、あるいは束の間が無限と同義になるような状態だ。明け方や夕刻といった時間帯が2作品を彩るのもそれゆえだ。夜の闇こそが存在の強固さを保証し(『すべては夜から生まれる』)、昼の陽こそが存在を幻想性へと導く(『砂の影』)甲斐田作品において、この中編2作を漂う明け方や夕刻といった薄闇こそは、存在を「つなぎ」の状態に置きながら、ある昂揚のなかで束の間と無限とを同居させる。
あるいは、それこそが都市というものの概念そのものなのだろうか。つまり、ここでは東京もパリも、都市そのものというよりは都市の概念として存在すると、そう言えるのかもしれない(だからこの2本はフィルムノワールへと近づく)。
互いに名も知れず、言語さえ混じり合うような、そんな都市に特有の昂揚感。そんなものはもう誰も必要としていないと社会学者たちには言われそうだ。だから『ロト』と『MUGEN』は、やはり「時代錯誤」な作品と言えるだろうか。だが映画においてこの錯誤ぶりとは、絶対的な強さと同義だ。