« previous | メイン | next »

December 6, 2009

『紀元一年が、こんなんだったら!?』ハロルド・ライミス
結城秀勇

[ DVD , sports ]

『ワルキューレ』(ブライアン・シンガー)「チェ」二部作(スティーヴン・ソダーバーグ)『ミルク』(ガス・ヴァン・サント)と、2009年の前半には「失敗した革命」についての映画とでも呼べるような作品が相次いで公開された。そして現在、トム・クルーズがあんなに必死になっても殺せなかったアドルフ・ヒトラーを、イーライ・ロスがいとも簡単に殺してしまう様を『イングロリアス・バスターズ』で目にしてしまうと、約一年前とは状況がだいぶ変わってきたのを感じる。それをポスト・ブッシュ時代の作品などと呼んでみたところでさしたる意味があるはずもなく、むしろ「革命」のようなものに対していま映画が取り得る道を明確に規定したのは共和党支持者たるイーストウッドがもたらした2本の映画だと断定できる。『グラン・トリノ』でイーストウッドその人が示した、イメージ自身の自爆テロとでも言うべき方法論を『イングロリアス・バスターズ』を見て思い出さない方が難しい。そしてもうひとつ、『チェンジリング』における民衆が権力を拒絶するという方法もある。
『紀元一年が、こんなんだったら!?』はいわば神なしで(プレ)歴史を語ってしまおうというものである。そこには「禁断の知恵の実」と呼ばれるものはあってもそれを食って知恵がつくわけではないし、生贄や悪徳はあっても見返りも罰もない。時間的な経過がすべて空間的な移動によって置き換えられる非常に平面的な世界で、人々は神なしでやっていく方法を見つけ出す。「知恵の実」を食べても賢くならず、「聖堂」に入っても死なないジャック・ブラックが、図らずも民衆を扇動して権力を奪取し、そのうえで「選ばれた者」などいないという告発をやってのける。民衆が自分たちで道を切り開かねばならないのだと。
 この映画が『チェンジリング』との比較に値するなどということは決してないが、おそらくこれからしばらくこうした「民衆の力」を信じる(かのように描く)映画が増えてくるような気がする。しかし言うまでもないが、『チェンジリング』でイーストウッドがアンジェリーナ・ジョリーの身体を通じて示した方法とは、民衆の蜂起を先導するということではなくて、むしろまったく真逆の事柄だった。新しい時代の波とともに新しい自分自身の人生を生き始めることではなく、子供も父もいないところでなお、母としてあり続けること。まるで、家を失った非=居住者が家に不法にとどまり続け、職を失った非=労働者が職場に不法にとどまり続けるように、ここにいない子供とともに母としてあり続けること。こんな時代だからこそ、安易な民衆の勝利など見たくはない。アンジーの強靱さをわずかでも宿した人物を見たい。勝利ではなく、抵抗を。