『パンドラの匣』冨永昌敬安田和高
[ cinema , music ]
1945年~1946年。といえば、体制が大きく変化し、日本社会が少なからず混乱していた時期であろう。ところが『パンドラの匣』は、1945年~1946年にかけての物語でありながら、そのような混乱とはほとんど無縁である。まるで戦禍を逃れるかのように、混乱した社会を避け、結核を患った主人公は山奥の療養所へと“疎開”していく。そこでは戦後のドタバタなど、どこ吹く風。時間はゆったりと流れていく。そう。これはじつにゆっくりとしたフィルムだ。はっきり“遅い”と言ってもいい。
そこには矢継ぎ早に繰り出される饒舌なナレーションはもはや存在しない。もちろん冨永昌敬のフィルムにおいて饒舌なナレーションが、我々をすんなり物語の結末へと導いてくれたことは、いまだかつてない。やたら猛スピードで物語の周囲をぐるぐると回りつづけるうち微妙にズレて結末へと漸進していくような、それはつねに極めて不経済な語りである。だがそれでも、とにかく猛スピードにはちがいない。なんというかナレーションが先走って物語の鼻面を引き回しているような。いっぽう『パンドラの匣』のナレーションはいくぶん物語の後手に回っている。
主人公の青年「ひばり」(染谷将太)がひと足先に退院した親友「つくし」(窪塚洋介)に宛てた手紙。その文面が時折のんびりしたナレーションで紹介される。当然だが手紙に書かれているのはそれ以前に起こった出来事についてである。しかも読まれるのは常に「ひばり」から「つくし」への手紙であって、対する「つくし」からの返事が読みあげられることはめったにない。たまに「ひばり」の手紙に引用される形で間接的に表現されるだけだ。このような、少し物語にたち遅れた、一方的な説明によって、じわじわと『パンドラの匣』は押し進められていく。
まあナレーションというものはだいたい事後的なものなのだが、それが冨永昌敬にあっては物語をやみくもに駆動させる力となっていた。しかし「ひばり」のナレーションに物語を牽引するだけの力はなく、むしろそれは遅れをとりつづける。ただ後塵を拝しながらも、大人ぶって背伸びをする「ひばり」の斜に構えた“おしゃべり”は、とても魅力的ではある。
しかしそんな悠長な「ひばり」を物語は引き離しはじめる。
要所要所でひょっこり姿を現わす郵便配達夫(尾本貴史)。その奇妙な存在が、知ってか知らずか、物語を大きく動かす契機となる。なぜなら彼が配達するのはなにも「ひばり」と「つくし」の間で交わされる手紙だけではない。別の手紙もまた配達されるのだ。そうして物語は「ひばり」の与り知らぬところで、ゆっくりとではあるが着実に展開しはじめる。
この「ひばり」の遅れは、「つくし」が「竹さん」(川上未映子)へ手紙を届けるシーンで、ついにピークに達する。
廊下で拭き掃除をしていた「竹さん」がふと気が付いて振り返ると、床に封筒が落ちている。郵便配達夫さえ介さずに届けられた手紙。もはやそこへ「ひばり」が追いつくことはできない。といって、ことさら物語がはやいわけでない。それは間延びしたような演出によってゆっくりと展開される。手紙を手に取り、廊下の窓を開ける「竹さん」。しばらくカメラは、「竹さん」の横顔を写しつづけたあと、ようやく屋外から、窓辺にたたずむ「竹さん」を見上げる。わざとひと呼吸余計に置かれたかのような間。にもかかわらず「ひばり」は遅れるのである。やっとの思いで手紙に到達したときには、すでにそれは打ち捨てられている。水に濡れ文字が滲んでしまった手紙を判読することはできない。
だがしかし、この“遅れ”にこそ、『パンドラの匣』は賭けられているのではないだろうか。
飄々と遅れをとりつづける「ひばり」が最終的に選び取るのは、「竹さん」ではなく、元気いっぱいの田舎娘「マア坊」(仲里依紗)だ。あか抜けず、どこかもったりした「マア坊」。彼女の手を引くことになるのは、「ひばり」が遅れつづけた結果である。ラストの防災訓練のシーン。いちばんに外へ飛び出してきた「マア坊」が足踏みをしながらこんどは「ひばり」の出てくるのを待つ。そのスローモーションで撮られた「マア坊」の“足踏み”は、全身で軽やかに“遅れ”を肯定する、じつに魅力的な仕種だ。
そう、考えてみれば、“希望”は、災厄に“遅れ”て、「パンドラの匣」の隅にひっそりとあったものなのだ。