『マイケル・ジャクソンTHIS IS IT』ケニー・オルテガ結城秀勇
[ cinema ]
憧れの舞台に立つために世界中から集まり、見事オーディションを勝ち抜いたダンサーたちのインタヴューを見て、ハーモニー・コリンの『ミスター・ロンリー』を思い出してしまう。ずっと夢だった、マイケルのためならなんだってする、口々にそう語り、あるいは感極まって泣き出しすらする彼らは、もちろん国籍も人種も年齢も性別もスタイルも様々なのだが、なぜかふとした瞬間、口調や呼吸が『ミスター・ロンリー』のディエゴ・ルナめいていることに気づく。と言うことは、平たく言えば彼らがみなマイケル・ジャクソンっぽいということになるはずだが、どうもそれとは違う。あくまで彼らはマイケル・ジャクソンを、ではなくマイケル・ジャクソンではないにも関わらずマイケル・ジャクソンとして生きようとしたディエゴ・ルナを思い出させるのだ。
そのインタヴューのすぐあと、このショーの共同制作者であり結果としてこの映画の監督となったケニー・オルテガによるナレーションが入る。そこで彼が口にするのは、このショーを成功させるためには、ダンサーをはじめ、ミュージシャンや技術者を含めたあらゆるスタッフがマイケルの一部=「extention」として機能しなければならないというセリフである。だとすれば前述した私の感想は、マイケルの延長として機能する人々がそのプロフェッショナリズムゆえに身にまとったMJ性とでも呼ぶべきもののせいだろうか。真のMJを輝かせるためにその場に配されたMJ的なるもの?
だがついにステージに上がったマイケルを目にして感じるのは、彼こそが真のMJなのだという確信ではない。複数のリハーサルがつぎはぎされ、幾多の衣装の間をまたぐ彼のイメージは、「これこそがそれ=THIS IS IT」的な唯一無二のMJの強固なイメージではない。むしろ複数のリハーサルのどのヴァージョンのMJも皆一様にMJらしい。そしてひとたび彼が舞台に上がり、肩を動かし、腕を振り上げ、股間を握るならば、そのとき初めて背後で踊るダンサーの連動する部分的な動きの中からMJ的なものが引き出される。唯一無二の真のMJのイメージが舞台の中央にあるのではなく、彼がいることで舞台が任意のMJのイメージによって埋め尽くされる。たとえ舞台上にたったひとりで行う終盤の曲のリハーサルでさえ、リハーサルであるがゆえの一握りの観客(彼らはバックダンサーでありスタッフだ)を切り返して映し出してしまうことが、コール&レスポンスによるMJ性の増殖を促進する。もしこの映画の中にーー『ギルダ』や『孤独な場所で』ではなくーー『ミスター・ロンリー』の抜粋が紛れ込んでいたとすれば、ディエゴ・ルナの「ホゥッ!」もまた、巧拙や真偽を超えてマイケルの「ホゥッ!」と同じMJ性を獲得しただろう。マイケル・ジャクソンのショーの効用はこれだったかとはたと膝を打つ。