『ジュリー&ジュリア』ノーラ・エフロン結城秀勇
[ cinema ]
自宅のキッチンがスミソニアン博物館に展示されているというほどの、アメリカでのジュリア・チャイルドの人気のほどはあずかり知らないが、とにかく料理と恋愛の共有部分を描いた佳作だと思う。正直なところ、美味しそうな料理が出てくる映画はそれだけでいつも高評価を与えてしまっている気もする……。
パリを訪れたジュリアが初めて食べる平目のムニエルから、彼女の料理レシピを制覇しようと試みるジュリーが最後の難関として残す鴨肉の骨抜きまで、骨と肉を切り離すことで調理が始まり終わるこの映画である。しかし、実際に描写されている料理が具体的にそこまで美味しそうであったかどうかということについてはいささか自信がない。基本的に料理がいかに美味しいのかという表現は、ジュリアの夫、及びジュリーの夫のひと言コメントに寄っているからだ。たとえばブッフ・ブルギニョンひとつをとっても、そこになされた仕事とできあがった結果を示すことによって美味しそうな感じをショットとして切り取っているのではなく、あくまで料理がそれを初めて食べる人の口に運ばれることによって美味しそうな感じが生まれる。それは多分映画としての力の弱さを物語っているのかもしれない。もしこの映画が純然たる「料理映画」(?)であったならばこの点はマイナスでしかない。しかしこの映画で作られる料理とは不特定多数の客を満足させるためのものではないのだ。彼女たちが作っているのは、万人が納得する味の料理でも、有名になるための料理でもない。特定の口に運ばれた後で、美味しそうな感じが生まれればそれでいい。だからジュリアはこう言う、「失敗しても言い訳をするな、不満を言われても耳を貸すな」と。
手持ちぶさたから料理を学び始めたジュリアと、ブログを書くためにそのジュリアのレシピを制覇しようとするジュリー。彼女らのほとんど自己満足な料理が常に特定の誰かを喜ばせるとしたらそれはそれで価値のあることだと思うのだ。そこでは美味しさは副産物的に生まれる。自分の口に入るものであればそれが本当に美味しいのか吟味することはあっても、別の人が食べるものでその人が美味しそうに食べるのなら、それで十分なこともある。どんな撮影効果なのかメリル・ストリープのデカさにびびり、エイミー・アダムスが全然可愛くねえなあと思った冒頭を経て、映画が終わる頃なぜだか彼女たちが可愛らしく思えてくるのもそんな理由かもしれない。黒岩が nobody issue32に記していたように、エイミー・アダムスにメグ・ライアン的なコメディエンヌの資質の開花を見た。