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January 14, 2010

『蘇りの血』豊田利晃
結城秀勇

[ cinema ]

「手に職を持ってますから、どうとでも生きていけます」と按摩のオグリは言う。この映画のなかで名指しされる具体的な職業は「按摩」と「薬屋」だけだ。その貴重な職の中でも、「手」で行う仕事は按摩だけなのだから彼は極めて特権的な職業に就いていると言えるだろう。ヒエラルキーの頂点にいると思われる「大王」でさえもが病に苦しむこの社会で、あらゆる経済活動は健康を通じて行われる。そしてこの「健康」は、「死」の対義語としての「生」を意味するのではないのだ。さらに言えば、どれだけよく生きているのか、という「生」の程度や質についての問題でもない。むしろそれは「生」と「死」を交換するための貨幣のようなものだ。
 タイトルやあらすじを読めば、この作品が復活を巡る寓話なのであろうことは察しがつく。下世話な話をすれば、『空中庭園』以降のブランクを経た、豊田利晃の映画監督としての復活すらそこに賭けられているのではないか、という邪推もできるかもしれない。しかしこの映画を見た後に感じるのは、豊田は復活という主題にさしたる重みを置いているわけではないだろう、ということだ。83分の上映時間の大半を使って描かれている、死→不具な生命体として再生→温泉に入って復活、という流れは、重そうないざり車を引く草刈麻有の小さな身体、どのくらいの距離と時間が流れたのかもわからない森の中の旅路、という見かけにもかかわらず、なにか劇的なこと、奇跡的なこととしては眼に映らなかった。お湯の中から立ち上がる中村達也を捉えた2、3分間にも及ぶ高速撮影は、もはやその長さゆえに却って、スローモーションによるあるアクションの強調という印象を与えることすらない。「この世の方が、地獄より地獄だ」と登場人物たちは口にするが、「蘇りの湯」が見せるのは終わらない生き地獄からの脱却ではなく、ありふれた死とありふれた復活を含めたプロセスのすべてが所詮地獄に過ぎないのだということだろう。あの頃は本当に地獄だった、と安全な場所から振り返るのではなく、いまもって地獄に身を浸しながら復活を繰り返すためだけに死ぬこと。
 つまり高速度撮影によって引き延ばされるアクションと、低速度撮影によって巡り行く気象との折り重なりによってなる中盤以降の展開は、「健康」という経済に毒された社会に対する抵抗のひとつの方法なのかもしれない。そこでは死も生もなにひとつ特権的なものではなくなり、そんな小さな生き死にとは無関係だとでも言うように、見かけの時間は過ぎていく。と同時に、一方は引き延ばされ、一方は早足で通り過ぎていく見た目との狭間で、それとは関係のないリズムを刻むTWIN TAILの音楽。その組み合わせの中で経済原則は次第に崩壊していき、最後には健康という価値を一種の快楽が駆逐するのを観客は目にするだろう。


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nobody issue32 にて豊田利晃と渋川清彦の対談を掲載
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