『怒る西行 これで、いーのかしら。(井の頭)』沖島勲田中竜輔
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誰の目にも明らかなように、竹中直人の代表芸である「笑いながら怒る人」とは、「笑い/怒り」という感情を、「顔」と「声」によるたったふたつのイメージによって分断する芸である。つまりこの芸が成立するためには、このふたつの感情がそれぞれまったく別の次元に属するイメージであると、そう認めなければならないのだ。しかし「笑い」と「怒り」の境界など本当に存在するのだろうか。もしもそんなものがあるとしても、それはたったふたつのイメージによって表象されうるものではないはずだ。「笑い」に「怒り」の存在を認めず、「怒り」に「笑い」の存在を認めないとすれば、私たちの「笑い/怒り」はどこまでも閉塞していくだろう。それを打開するためには、「笑い」から「怒り」を、「怒り」から「笑い」を、同時に見出す目と耳を養わねばならない。
『怒る西行』を見ることとは、同時に「笑う西行」というもうひとつの存在しない映画を見つめる視線を養うことだ。なぜならば、何かの「冗談」にしか思えない世界について語ることは、それをまったくの「現実」であると認めることからしか、すなわち自身の認識の敗北を受け入れる限りでしか始められはしないからである。沖島勲は、そして『怒る西行』は、そのことをはっきりと受け入れている。氏の歩みは、風景についての私的(プライヴェート)な思索へと蛇行を繰り返しつつも、「玉川上水」という公共(パブリック)の場を決して離れようとはしない。自身の思考を風景に重ね合わせつつ、そのすぐ傍を走り去っていく人々や自転車は、氏の語る「冗談」に対するアンチテーゼそのものであり、それをなくしては何も言うことはできないのだと、このフィルムはそう自覚している。兵庫橋とモーリス・ド・ヴラマンクの絵画の間に見出される関係性は、「誰か」にとっては途方もない「現実」でありつつも、別の「誰か」にとっては「冗談」でしかないかもしれない。けれどもその齟齬を恐れてはならない、むしろその齟齬こそを認めなければならない。全体性を仮構することなく、その限られた視界に住まう無限の可能性を見つめなければならない。地面に這いつくばり続けるこのフィルムのキャメラが生きるのはそんな捨て身の態度である。
映画という「現実」と「冗談」の境界を生きるメディアにおいては、そのような態度ほど重要なものはない。世界には、「現実」と「冗談」はどこにだって境界をあいまいに偏在している。それらを整理し、分断し、ふと迷い込む隙をなくすことこそ、映画が最も避けなければならないことだろう。それゆえに、『怒る西行』の映し出す川沿いの草叢のざわめきから、あの『出張』の山間部にアジトを構えていた原田芳雄らゲリラたちの朗々とした息遣いや応戦する爆音が聞こえてくるとすれば、それは決して幻聴ではないし、木々の枝の隙間をそよぐ風が、『一万年、後....。』の宇宙に吹きすさぶ風と同じものに感じられるとしても、それは決して錯覚ではない。散歩道という無限の宇宙に迷い込むことを恐れてはならない。
ポレポレ東中野にて2/5まで連日21:00より上映中!
また1/22まで、『一万年、後....。』 も連日19:15より上映中!
nobody issue32 にて沖島勲監督インタヴューを掲載!
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