« previous | メイン | next »

January 19, 2010

『建築と日常』公開座談会「個人と世界をつなぐ建築」
結城秀勇

[ architecture ]

 3月発売予定の『建築と日常』No.1に掲載予定の公開座談会を青山ブックセンターにて。伊東豊雄、坂本一成、中山英之、長谷川豪の4人を招いての座談会である。創刊準備号である『建築と日常』No.0の特集「建築にしかできないこと」から、No.1の特集である「物語の建築」への橋渡しとも呼べるようなイベントであった。
 はじめに「個人と世界をつなぐ建築」というテーマで、各人がプレゼンテーションを行う。私的なものと公的なものの関係性のような話になる。伊東豊雄、坂本一成のプレゼン後、『建築と日常』の編集者である司会の長島明夫から、「物語の建築」という(様々な誤解を招く可能性をはらんだ)コンセプトについての説明がある。ごく乱暴にまとめると、通常「物語」という言葉が想起させるのは、主観性であったり個人的なもの、あるいは外部から独立して成り立つ閉鎖性など(こと建築において)ネガティヴな要素であることが多いが、「物語」を神話や民話のようなものも含めたものとして考えるならば、そこには主観を超えたもの、パブリックなものであるとも考えられるはずだ、というようなことが話される。
 各々の詳しい内容については『建築と日常』No.1の刊行を待っていただければと思うので省く。面白かったのは、この「物語の建築」を巡る対話の中心にあったのは「建築の言葉」とはなにかという問いだったのではないかということだ。中山の「2004」の、建築家のごく恣意的な主観に過ぎないスケッチを数多く積み重ねることから建築をつくるという話。あるいは長谷川の「狛江の住宅」における「道路より1m高い庭」や「五反田の住宅」の一軒の建築をふたつの建物に見せるスリットのような「装置」。それらはまったく違った意味で、建築を知らない人間でも魅力的に思える「物語」を喚起する。ごくごく私的なものをある種公的なものに変容させるプロセスであり、単なる公衆をひとりの私人として招き入れるかもしれない契機。そうした魅力に惹かれる一方で、伊東が「くまもとアートポリス」のコミッショナーに就任した際のエピソードにも胸を突かれた。コンペティションで選ばれる建築の良さをどうやって伝えるのか。建築家に対してなら、この建築はこうこうこのように良いといくらでも説明できるが、それは建築の「表現」のレベルに過ぎないのではないか。建築家ではない人にそれを伝えることはどうすればできるのか。
 そのための言葉が、客観的なデータや効率性を示す数値ではない、というのは参加者の言を待つまでもなくわかりきったことだろう。小さな物語が、差異や変奏を包み込む社会性を獲得できるのか。だとしたらその物語はどのような言葉で語られるのか。興味深い問いだ。


『建築と日常』ホームページ