『インビクタス 負けざる者たち』クリント・イーストウッド結城秀勇
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モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラは、民族融和のための象徴的なイベントとして1995年のラグビー・ワールドカップを位置づける。その成功のために彼は、南アフリカ共和国代表チーム・スプリングボクスのキャプテン、マット・デイモン演じるフランソワ・ピナールとの面会を行う。ふたりは互いに自分の立場を重ね合わせるかのようにして、実現不可能に見える目標に向かって人々を指導(リード)していくことについて、言葉を交わす。如何にして人を導くことができるのか。「自分が手本を見せることによってです」とピナールは答え、マンデラもまたそれにうなずく。このやりとりに、これまでイーストウッドの作品に登場してきた指導者(あるいは教育者)の姿を思い出す。『ハードブレイク・リッジ 勝利の戦場』のハイウェイ軍曹、あるいは立場は違えど『ミリオンダラー・ベイビー』のフランキー。だが、ハイウェイ軍曹とは違いピナールが肉体的な接触によってチームメイトを引っ張っていくことはない。また、マンデラがフランキーのように常にリングサイドに居続けることもない。イーストウッド自身が演じてきたトレーナーはここにはいないのだ。予告編でも使われているウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩の言葉通り、ここで出会うふたりは、コマンダーでありキャプテンである。
この面会シーンには、「目が悪いから」と言って窓を背負って椅子に腰掛けるフリーマンと、その左手に腰掛けたデイモンを互いの肩越しに切り返すショットがある。ほぼ同じ距離間での撮影のはずなのに、フリーマンの肩越しに見るデイモンよりも、デイモンの肩越しにみるフリーマンの方が、なんだか遙か遠くにいるように見える。思い起こせば、この違和感はこの場面で初めて感じたものではない。この作品のはじめから、フリーマン=マンデラのいる場所は変だった。彼だけがニュース映像の中に姿を見せていた。彼はいつも誰からでも見える場所にいる。だからこそSPにとっては、すれ違うすべてのものが潜在的なテロの驚異に変わるのだ。追い越していく新聞配達の車にSPたちは危機を感じるが、新聞配達人はまるで大統領がそこにいることなど気づきもせずに、マンデラの写真が一面に載った新聞の束を置いていく。同様に、スタジアムの客席に気軽に入っていくマンデラの姿にSPは警戒を強めるが、スタジアムに満ちているブーイングとは裏腹に彼の握手を拒む者などいない。悪意の対象として衆目に曝されているという危惧と、フリーマンと実際に接する人たちのリアクションとの齟齬は、この作品の全体を通して流れ続ける。この違和感を端的に示しているのが先のショット切り返しショットなのではないか。フリーマンはすぐ目の前にいるのに、まるでどこか別の場所にいるみたいに、人々は振る舞うのだ。
いたるところにいるようで、いまここにはいないようなフリーマンの指揮の下、民衆はどうやって不可能に見えた勝利を獲得するのか。コマンダーとしてのフリーマンはいかなるコマンドを発し、勝利に導いたのか。本当に正直なところ、なにもしてないんじゃないか、と思う。ただひとりでにそうなったのだと。ピッチ上のコマンダーであるデイモンの姿が見失われ、緑と黒のユニフォームを着た人々がスローモーションの連鎖の中でひたすらぶつかり合うときに、ただひとりでに勝利が生じる。膨大にあるように見える悪意の発露の可能性が、何事もなかったように無視されていく過程で既に気づくべきだったのだが、「キャプテン・オブ・マイ・ソウル」だったのはフリーマンとデイモンではなく、あらゆる人々なのだった。
だが……、やはり何事も「ひとりでにそうなった」りはしないはずなのだ……。この『インビクタス』にもイーストウッドというコマンダーがいるように。コマンダーの存在を突出したものにしないというのは『チェンジリング』『グラン・トリノ』の流れから理解できるが、ここまでかと、驚いている。