『アワーミュージック』相対性理論+渋谷慶一郎田中竜輔
[ music ]
ピアノ、エレクトリック・ギター/ベース、ドラムス、そして様々な電子音。普段はまったく忘れてしまっていることだが、そもそもの音の大きさが異なる楽器たちがごく「自然」にひとつの楽曲を奏でているということは、本当はものすごく「不自然」なことで、音の増幅を制御する技術が存在しなければ、それら楽器の数を量的に調節するか、もしくは物理的に距離を取るしか、本来その音楽を実現する術はないはずだ。遠く離れた場所から奏でられるギターやピアノ等々を背に、囁くような歌声で奏でられる音楽というのは構図的にはとても魅力的だが、ともあれ、いつも私たちが耳にしている音楽、とりわけポップスのほとんどは、そのような「不自然さ」を前提として奏でられている(もちろんそれは音の大小だけに限られた問題ではない)わけで、この「不自然さ」に対してどのように振舞うかということは、ミュージシャンや歌い手の立場をはっきりと示すものであるはずだ……などと、言葉に置き換えてみれば簡単なことだけれども、しかしそんなことを実感する機会は決して多いわけではない。そんな中で、『ATAK015 for maria』収録楽曲を基調とした相対性理論+渋谷慶一郎のコラボレーション作品『アワーミュージック』は、そもそも調和を可能にしているわけではないそれぞれの音の間の「不自然さ」が当然のものとして音楽に存在することと、その調和自体の「不自然さ」こそが形作る音楽の存在を、はたと気付かせてくれる一枚であるように思えた。
「音楽を否定するとか、今までの音楽の歴史を全部更地にして、音を出さないとか、ずっと同じ音を鳴らすとか、そういうことによって音楽の概念を更新しようとする立場とは、むしろすごく遠い(中略)新しい音楽とは何か?という問いが成立するかどうかは別として、僕は音楽を内側から食い破る方が面白い」
(nobody issue31所収 渋谷慶一郎インタヴューより 聞き手:田口寛之)
『アワーミュージック』に鳴り響くひとつひとつの音は、渋谷慶一郎の『for maria』の楽曲をまさしく「内側から食い破る」ような「歌」として蠢いている。蠢いている、というのは文字どおりの意味だ。1曲目「スカイライダーズ」冒頭からステレオに振られたやくしまるえつこの「ナナナナーナーナ」というコーラスに続く最初のブレイク、「まさかね」という歌い出しがセンターに響くと、それまでセンターでミュート気味にフレーズを重ねていたギターがR.chからスライド気味に和音を鳴らす。この最初のブレイクにおける音の定位のダイナミックで自由な変動こそが、『アワーミュージック』全体を貫く一瞬であるように思える。それぞれの楽器は全体を構築する部分として機能しているのではなくて、それぞれがそれぞれの全体を持ち、それが共鳴することで形作られることを実現する音楽、と書けば少しでも伝わるだろうか。原曲である「Sky Riders」や「Our music」をひとつの海として、その中でそれぞれの音がその潮流にそれぞれの「歌」を見つけ、それを指針に勝手気ままに泳いでいたら、いつの間にかそれがひとつの音楽になってしまったかのような、「不自然」な響きの豊かさな差異を包み隠すことのない音楽として、私は『アワーミュージック』を聴いている。
しかし、そのそれぞれの流れに舵を取る者の中で、それにしてもやくしまるえつこという歌い手の声の手触り(耳触り)には驚かされた。彼女のウィスパーヴォイスが(そして曲の始まりを告げるブレスが)、複数の楽器との共演においてこれほどに存在感を保っているということ自体がまさしく先述した「不自然さ」そのものを率直に体現しているのだと思うが、「BLUE」、そして「our music (remodel light remixed by alva noto)」での彼女の声はそういった問題を超えて本当に凄い。彼女が参加するというジム・オルークのバカラックのカヴァーアルバムも楽しみだが、その前にこれまであまりピンと来ずに流し聴いてしまった相対性理論の過去作を聴き返してみたく思う。