『夜光』桝井孝則梅本洋一
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「未来の巨匠たち」特集上映の枠で、桝井孝則の『夜光』を見た。プログラミングに携わるひとりなのに、初めて見たと告白する無責任さを許して欲しい。関西に住む彼の作品に触れる機会がなかったと言い訳するのも、DV撮影されているのに、ディジタル時代のアナログメディアである映画がなかなか距離を踏破しづらいことを示しているのかも知れない。
海老根剛の文章はこのフィルムにはうってつけのイントロダクションになるだろう。そして桝井孝則のフィルムを、ものの1分も見れば、このフィルムが作っている力学を感じられない人はいないだろうし、その映画を見たことがある人なら一様に「ストローブ=ユイレ!」と呟いてしまうだろう。異様なテンションで語られるリアリズムから遠い台詞回し、長々と続行する風景のショットとノイズを排除しない現場の音……そう書けば、ストローブ=ユイレの真似事は誰にでもできそうなのだが、ゴダールの真似をできる人がいないように、映画の限界体験でもあるストローブ=ユイレの力学をそのままコピーしたところでストローブ=ユイレになれる人など誰もいない。なぜなら、ストローブ=ユイレのフィルムが生成するのは、フォルムではなく、力学からだからであって、その力学は、厳密な弁証法に基づいて成立する。音声と映像と簡単に言ってしまえばそれまでなのだが、その弁証法的な力学に到達できる人は、例外的だ。
つまり桝井孝則は例外的な存在だ。彼のフィルムでは、どんな局面においてもそうした弁証法的な力学が息づいている。台詞と声、ペンと紙、男と女、都会と田舎、停止と移動、時間と空間、仕事と金銭……。表面的には、派遣労働者である女性と同じように写真家になりたいのだがアルバイト生活をする男性の労働についての物語の体裁を採っている。重要なのは、その物語が語る内容ではなく、弁証法の産み出す力学であって、映画は、その要素をひとつひとつ詳細に知的に構成しつつ、弁証法の運動をそのプロセスのまま提示している。『夜光』は、その意味で、撮ってしまった映画とは正反対の位置にある。
むろん、こうした映画が備えている困難さについては誰でもが知っている。映画は商業であり、娯楽であると言われれば、このフィルムは、その範疇には入らない。映画産業から見れば、このフィルムは映画ではない。だが、映画にはどんな可能性があり、映画でどんなことが可能になるか、という商業を括弧に入れて、別の問題を立てれば、このフィルムほど、その問いにまっとうな回答を与えているフィルムはないだろう。つまり映画とは思考である。映画とは弁証法の運動である。
特集上映「未来の巨匠たち」シネマ・ジャック&ベティにて開催中、1月29日まで!