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February 1, 2010

『サロゲート』ジョナサン・モストウ
結城秀勇

[ book , cinema ]

「ターミネーター」シリーズを3でキャメロンから引き継いだジョナサン・モストウ。日本では奇しくもキャメロン12年振りの劇場長編と同じタイミングで、モストウの新作『サロゲート』が公開されている。偶然にしては出来過ぎなほど、キャメロン『アバター』とモストウ『サロゲート』は比較対象としてうまい対になっている。
 どちらの作品も、生身の人間が異なった外見の人工物に乗り込み、人工物の体験を生身のものとして感じるという事柄をプロットの中心においている。『アバター』のそれはCGであり、人間とはスケールも色合い(世界の背景も含めて)も異なる。一方『サロゲート』は、皺や皮膚のたるみなどが消された特殊メイクを強調した存在として現れる。一皮むけば機械の中身が簡単に露出してしまう所などは、旧式ターミネーターを思い起こさせもする。そして極端に言うと、『アバター』はCGが人間を駆逐する話なのだと言えるし、『サロゲート』は人間が特殊メイクを駆逐する話だと言える。
 作品を見る前には、モストウを応援したい気持ちが多分にあったのだが、鑑賞後にはどうも乗り切れない気分が残る。その理由はおそらく『アバター』との比較によって明確になったものかもしれない。『アバター』では、人間がアバターに乗り込んだ後の経験は詳しくわかるが、なぜアバターに乗り込む必要があるのかはよくよく考えるとわからない。逆に『サロゲート』ではなぜ人間がサロゲートに乗りたくなるのかはわかれど、実際乗り込んだ体験がどんなものかはよくわからない。この点が、映画のおもしろさということに大きく関わっている気がするのだ。
『ロスト・イン・アメリカ』の中で、安井豊はキャメロンの映画の構造的な同一性について語っている。「スピルバーグの時代」の空間は我々が現実に生活する空間の延長上にあったが、「キャメロンの時代」の空間は、理論的には延長上に位置しているが、実際には我々の生活空間から途絶した異空間になっていると。例えば『ターミネーター』であれば「観客は、核戦争後の死者の視点ーー単純に言えばターミネーターの視点ーーからLAを見ていることになる」と。
シリーズ三作目にして、初めて核戦争がリアルタイムな事柄となった『ターミネーター3』におけるおもしろさはおそらくここにかかっていた。あの非人間的な物体との追跡劇は、核戦争後の使者の視点と核戦争前の生者の視点が紙一重のところまで近づいたところで初めて可能だったのではないか。『サロゲート』でも同様に行われる追跡劇がどこか盛り上がりに欠けるのは、あのシーンを傍観しているはずの普通のサロゲートたちの視線がどんなものなのか、観客にはわからないせいだろう。乗り心地という点で、サロゲートがアバターに劣っているのは明白である。


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