『まだ楽園』佐向大結城秀勇
[ cinema ]
曖昧で矛盾したやりとりは、対話をどこへも導かないまま、その量を増加させていく。前進しているのにどこへも行かない、月並みだけれど見たことのない風景がどこまでも広がっていく。そうした世界を名付けるとすれば、その公開から4年を経たいまでも、やはり“まだ”楽園なのだと呼ぶほかない。
この映画を初めて見た2004年の初夏から、何度か繰り返しこの映画について書いてきた。この作品に捉えられた私たちを取り巻く風景について、いくつかのカップルについて、繰り返される矛盾に満ちた会話について。だからもう、いまさら改めて書くことなどないだろうと高をくくっていたが、見直してみたところ “まだ”この作品には驚かされる。『ランニング・オン・エンプティ』という新作の公開が直前に迫ったこのときになお、『まだ楽園』というタイトルの中の “まだ”という言葉の重みは失われていない。
もう既に何度か見たやりとりに笑いをこらえきれなかったのは、彼らのやりとりが正しいタイミングをつかんでいるからだ。父殺し、世界の終わり、というともすれば90年代的な色合いに染まってしまいそうなテーマを持つこの作品が、ちっとも古びた感じがしないのは、絶えず重苦しさに空虚な風穴を穿つ笑いがあるからだ。そのタイミングは、やはり私たちを“まだ”という時間感覚の中に置く。死体の埋葬の儀式にあわせて二度繰り返される、世界を切り裂くエンジンのスタート音。そのタイミングの絶妙さには震えを覚える。とりわけ二度目は、狭い室内空間を稲妻のように切り裂くミサイルズの音楽付きで。そしてライヴハウスのシーンで、佐向大自身が演じる店員のあの乾いた笑いのタイミングはどうだろう。
“まだ”という時間感覚の可能性は、“まだ”使い尽くされていない。