『The Anchorage 投錨地』C.W.ウィンター&アンダース・エドストローム結城秀勇
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セルジュ・ダネーは、「目のための墓場」と題されたストローブとユイレの映画についての文章で、次のように述べている。「映画を、映像を、声を、投錨するということ、それは映画の不均質性を真剣に受けとめることである。また、そういった投錨、つまりひとつの映像にとって、他の場所ではなくそこでしか可能ではなかったという事実、それは単に言葉と声の問題だけではない。それはまた身体の問題でもある」(「カイエ・デュ・シネマ・ジャポンⅥ ゴダールとストローブによる映画」)。
『The Anchorage 投錨地』は、スウェーデン、ストックホルム群島の人気のない小さな島に住むひとりの中年女性の3日間を描く。この作品で、一番最初に観客の記憶に刻みつけられるのは、この女性の身体である。まだ夜も明けきらぬ森の中を抜けて、彼女は海岸に出る。そこまで着てきたガウンを脱ぎ、彼女は素裸で海に身を潜らせる。ひとかき、ふたかき、時間にして数十秒にもならない短い水泳を終え、彼女は体を拭き、ガウンを羽織る。風にうねる波の音が耳を覆う中、彼女がゴム長靴に足を突っ込むときにたてる、ゴボッと言う音が、私たちをその場所に釘付けにする。
彼女は、泊まりに来ていた家族が帰って以降、ほとんど言葉を発しない。魚を捕まえ捌き、街に買い物に出かけ、屋根に積もった落ち葉を片付ける。椅子に腰掛ける。ほぼ無言で行われる彼女の一挙手一投足を見るならば、そこに物語られるべきすべてが描かれているのを理解するだろう。他ではないこの場所で、彼女がいかにして存在するのかを。しかし同時に、この作品を物語るのは彼女の声そのものである。日記の記述のような言葉を、ウラ・エドストロームの美しい声が3度読み上げる。日付との関連の中に繋ぎ止められる、動物や植物の様子、彼女の世界に侵入してきた異物、そして繰り返す季節の様子を。彼女によって音声化される言葉は、映像を裏付けるものでも、映像に裏付けられるものでもない。彼女の動きとそれが立てる物音が絶えず観客を現在に引き留めようとし、彼女のナレーションはそれをかつて繰り返されこれからも繰り返されるだろう小さなサイクルの連鎖へと広げていく。両者の振幅の中で、観客はこの地に繋ぎ止められる。