『ハート・ロッカー』キャスリン・ビグロー鈴木淳哉
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私は「戦争」に反応できない。なにか考えても、思うところがあっても、それらは戦争経験のない身にとって、反応からはるかに遅れた、それとは別のある振る舞いとしかならない。「振舞う」こと自体すらも何らかの倫理基準に抵触するのではないかと思い、縮こまるのである。だから、映画の冒頭で、「戦争は麻薬だ」という提言がなされても、「戦争」とも「麻薬」とも縁遠い身としては、どういう意味か考えてしまい、また「反応」は遅れ、「振る舞い」となってしまう。反応/振る舞いを分かつこの遅れは、やはり、戦争経験がない、しかし、戦争の存在は知っていて、私がここにいたかもしれない、というある種の後ろめたさに起因するのかもしれない。私の代わりに誰かが死ぬ。つまり、「戦争」を主題に扱った映画において、我々が、映画の中の登場人物に自らを重ねる場合、戦争以外を扱った映画の登場人物に自らを重ねる場合と真逆のベクトルをも含む。「私でない誰かが、ここにいる」という後ろめたさに端を発するものと、「私でない誰かが、ここにいるが、ある部分で彼は、私であるかもしれない」という願望に端を発するものである。
なぜ、こんなたためない風呂敷を広げたかと言うと、監督のキャスリン・ビグローが、そうした場所に観客を置いたからである。それはまさにこの映画の登場人物たちの主な仕事である、爆弾処理の場面で、観ることができる。
爆弾を中心に、被爆を避けて、半径数十メートルの空間が生じる。そこに、防爆スーツを着込んだ爆弾処理班が一人、中心を目指してつかつかと歩いていく。爆弾は市街地に置かれることも多く、当然衆目の目線は彼に集中するわけだから、無数のカメラポジションが発生する。宇宙服と見紛うような、分厚い防爆スーツに身を包んだ者の目線、また彼を守る者が、群集の中に怪しい人間がいないか、探す目線、爆弾処理を見物するそこに住む者たちの目線。これらは、即座に目線の主がわかり、これは誰の目線か、なぜこの目線が要請されたのか、考えることもない。映画の世界を確立するというよりは、人間の見た目に近く作られた画面で、これらのショットが繋がれていくが、そこにひとつ、人称性を帯びない目線がノイズのように紛れ込み、私の「反応」を遅らせる。映画に遅れて気づいたのは、それは、爆弾処理を実行するもの、また、彼を援護するものが、「我々はこのようなところから見られているのではないか?」と予測したかもしれない場所、つまり、爆弾の起爆装置があるのだとして、そのスイッチを握っているものがいるかもしれない場所に、カメラを置いたということだ。
映画の登場人物たちが、「私かもしれない」なら、この目線は、「私を殺そうとするものがいるかもしれない」場所であり、「私かもしれない人間に、殺意を持つものが、いたかも知れない場所」から、「私かもしれない人間」を観ることは、倫理基準への抵触を恐れる気持ちよりも強く面白いと思った。