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March 17, 2010

『あの夏の子供たち』ミア・ハンセン=ラブ
結城秀勇

[ cinema , cinema ]

 ジョナサン・リッチマンの「エジプシャン・レゲエ」が流れる中、矢継ぎ早にパリの街角の映像が継ぎ接ぎされ、その上に色とりどりのクレジットが重ねられる。「エジプシャン」と「レゲエ」の突飛な組み合わせからなる曲名からも想像できるそのままの、どこかすっとぼけたようなエキゾチシズムが断片的なパリを積み上げていく。ホテルの入り口から姿を現した男が、これまた非常に短いショットの連なりの中で続ける携帯電話越しの会話には、グルジア、韓国、タジキスタン、スウェーデンといった様々な国名が登場する。主人公グレゴワールのモデルとなったプロデューサー、アンベール・バルザンが、クレール・ドゥニやユーセフ・シャヒーン、エリア・スレイマンといった国籍も様々な映画作家をプロデュースしていたという事実もあるだろうが、この映画の前編は、様々な断片がグレゴワールによってつなげられることで成立する。
 仕事である複数の映画の現場と、家族と過ごす郊外の週末。娘のつくった花壇、あるいは教会の天蓋に描かれたモザイク画は、娘たちによってその部分が名指され、それがグレゴワールの視線によってつながれる。いわば家族や仕事仲間たちが知覚する膨大な情報のハブのような機能を果たすグレゴワールの視線は、しかしながら物語の半ばで決定的に失われてしまう。ハンセン=ラブの前作『すべてが許される』にあったような断絶が、この作品の半ばにも待ち受けている。だが前者で起こっていたのは時間的な断絶と飛躍だったのに対して、この作品では世界を統括する主体がなくなったにも関わらず存続してしまう、情報の横溢としての世界でありその持続だ。
 グレゴワールの死後、郊外の別荘を訪ねた遺族が川沿いを散歩するシーンがある。妻と3人の姉妹の、女性だけになってしまった家族が肩を寄せ合い一列になって歩く画面を見ていると、まるでひとりの女性の人生の様々な段階がそこで一度に映し出されているのではないかという錯覚を感じる。母、長女、次女、三女、それぞれにひとつの死から引き出し得る情報は違う。そのひとつひとつが、他とは交換不可能な価値を持つ。それが亡き父の友人が次女に向かって「ママもお姉ちゃんも妹も、みんな君を必要としている」と耳打ちする理由であり、母が「死は人生の否定ではなくて、数多く起こる出来事のひとつに過ぎない」と口にする理由でもあるだろう。事実、幼い次女と三女によって先に目撃された世界の小さな断片が、ふとした拍子にもはや父のいない世界に再帰してくるのを観客は目にするだろう。突然の停電の中、灯されるロウソク。それはイタリアの教会で彼女たちが見た小さな炎のイメージであり、闇を照らす小さな光とは映画のメタファーでもあるのは言うまでもない。
 「私がほんの少女だった頃、将来どうなるかママに尋ねたわ。美人になるかしら?お金持ちになるかしら?」。この映画の最後で流れるドリス・デイの歌声が問いかける。「ケ・セラ・セラ」にはひとりの女性の3つの時間が存在している。少女の頃、まだ恋に落ちた若い頃、そして自分もまた母親となったいま。成長し母親になったいまも、幼い頃に発した自分の問いに答えられるようになったわけではない。「the future's not ours to see」。少女が乙女に、そして母親へと不可逆な変化を遂げていくのではない。この歌を歌うひとりの女性は、母親であると同時にかつてそうであった少女であり、乙女でもある。この曲のそんなところが好きだ。そして『あの夏の子供たち』という映画にも、それと同じ類の時間が流れているように思う。


フランス映画祭にて3/21に上映あり

初夏、恵比寿ガーデンシネマにてロードショー