『風にそよぐ草』アラン・レネ梅本洋一
[ cinema ]
かなり前からクリスティアン・ガイイのファンだったぼくはこのフィルムを心待ちにしていた。アラン・レネとクリスティアン・ガイイの遭遇。そして何よりも、その遭遇を望んだのはレネだった。レネがやるこの種の遭遇はいつも重要だ。最初は、たとえばマルグリット・デュラスとの遭遇、もちろん『ヒロシマ、モナムール』だ。そしてアラン・ロブ=グリエとの遭遇、『去年マリエンバードで』。いちいち挙げることはしないけれど、アラン・レネは、こうした文学のテクストとの遭遇で、映画が持っている可能性をいちだんと拡大した。デュラス、ロブ=グリエと書くとアヴァンギャルドばかりな気もするが、そう、常に前衛的な作家がそうであるように、前衛的な作家ほど通俗的なものを好む。ブールヴァール作家のアンリ・ベルンシュタインの『メロ』が、レネの映画にもたらしたものはとても大きかった。
そうした遭遇を経ると、レネは、もともともっていた彼のフォルマリスト的な側面をやや背後に隠して、正面を見つめるキャメラという映画の基本的な力に回帰する傾向があった。だが、極めて単純であるがゆえに、多様な想像力を働かせる可能性を秘めたガイイのテクストとの遭遇は、レネの自在な飛躍力を解放したようだ。ほとんどがセットで撮影されている空間と照明の中をアクロバティックな運動を繰り返すエリック・ゴーティエのキャメラはすごい。色彩──まるでヒッチコックの『めまい』のようだ──や形態──これもヒッチコックの『白い恐怖』のようだ──の完成された世界の中をたゆやかに運動する眼差しとなったゴーティエのキャメラにはただただ感嘆する。
アンドレ・デュソリエ、サビーヌ・アゼマというレネの常連たちの演技。デュソリエの声、アゼマの声。そして饒舌であるがゆえに、言葉よりも声だけが印象的なエドゥアール・バールのナレーション。言葉はすべてガイイのテクストそのままだという。ガイイのファンであるぼくは、彼のテクストがなぜこれほどぼくを惹き付けるのかをずっと考えていて、ベケットに似ているからではないかと思っていた。このフィルムについてレネのインタヴューを読むと、レネも、ガイイのテクストはベケットに似ているという。言葉は、短いがゆえに、どこまでも解放されていて、どこかに突き当たって──まるで壁にぶち当たるように──こちらにこだまのように帰ってくることはない。ある言葉は、別の言葉になり、そのまま放置され、中空を彷徨っていく。だからこそ、言葉それ自体の強度が高まる。このフィルムは、そうした運動が重層している。
フランス映画祭2010関連企画 アラン・レネ全作上映
第1部 2010年3月20日(土)~3月26日(金) 会場:ユーロスペース
第2部 2010年3月27日(土)~4月18日(日) 会場:東京日仏学院 2階エスパス・イマージュ