『ハート・ロッカー』キャスリン・ビグロー結城秀勇
[ book , cinema ]
『ハート・ロッカー』を見ていると、爆発物処理班とは爆発物を爆発させない人なのではなくて、むしろ積極的に爆発の契機になる人なのではないかと思ってしまう。無論、はじめに先任の班長が行う選択のように、適切に爆発させることは爆発物処理の一環ではあるのだが、なぜだかこの映画の中の爆発は「爆発させてしまった」とでもいうようなやましさに満ちている。130分ほどの映画で、4回も5回も沸き立つ噴煙と爆発音を耳にすることが出来るならもっとエンターテインメントであっても良いはずなのだが、爆発が繰り返し起これば起こるほどなんとも空々しい気持ちになる。
先日鈴木が書いていた視点の問題にもつながることだと思うが、それは爆発物を爆発させないようにする者は、爆発させようとする者の悪意に常に曝されているのだ、ということからくるのだろう。爆発が起こったのは遠隔操作によるものか、時限装置によるものだったのか、というやりとりの場面がある。ジェレミー・レナーは、安全な場所にいて爆発を眺めていたはずの悪意に満ちた起爆者の存在をかたくなに主張するわけだが、そんな存在は姿を見せない。この映画全体がカウントダウンという方法によって語られることから、悪意ある「他者」がいるのではなくて、まったく我々には無関心な時間が流れているのだと言った方がいいのかもしれない。しかしそんなことよりもむしろ、爆発の瞬間を目撃する観客に強く意識されるべきなのは、沸き起こる煙の柱をちょうどいい距離、ちょうどいい角度で目撃してしまうカメラの存在の方ではないだろうか。
だから、距離感が失われてしまうような手持ちカメラのふらふらとしたショットの連鎖や、「他者」としてのイラク人が周囲に徘徊することも、そこに私がいたかもしれないという臨場感に結びつきはしなかった。それがキャスリン・ビグローの狙いならば、爆発の瞬間をあのようなカメラポジションで取るべきではなかったろうし、あの瞬間あそこにカメラが存在することが出来る映画ならば、あの兵士の視線に擬したカメラなど物語に奉仕するものでしかない。爆発の瞬間をYouTubeもどきのサイトからしれっと拾ってくるデ・パルマとは大きく違う。
爆発物が爆発する。その自明さの中に道徳が差し込まれて、苦々しさだけが残る。この映画を見て、むしろアントニオーニ『砂丘』のラストのような爆発のための爆発を、私はいま待ち望んでいるのではないかという気がした。