『息もできない』ヤン・イクチュン梅本洋一
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このフィルムについて侯孝賢は、まるでゴダールの『勝手にしやがれ』が出てきたときと同じだ、と言っている。このフィルムの英語タイトルが « Breathless »という『勝手にしやがれ』の英語タイトルと同じことから来る発想だろうが、それだけではない。そこに何かが生まれるときに必ず感じられる同質の強度を感じるからだ。同質の強度と書いたが、『勝手にしやがれ』と『息もできない』は異なる。『勝手にしやがれ』がヌーヴェルヴァーグのフィルムが共通して持っていた映画へのオマージュと都市の瑞々しさへの感性がその全体を支配していたとすれば、『息もできない』を支配しているのは怒りだ。多様に重層している怒りだ。
そしてその怒りは言葉と身体の暴力として噴出する。ここからもあそこからも、至る所で暴力が噴出する。その暴力を肯定したり否定したりすることはできない。それが噴出するさまを映画が捉えている。言葉の暴力は音声によって、身体の暴力は映像によって。映画が暴力を捉えるのにもっとも相応しいメディアであることは、すでに多くのフィルムが証明してきた。焦点深度の浅い、近視眼のようなキャメラは、このフィルムの主人公サンフンに関わる暴力を捉え続け、怒りの余り言葉にならない吐息が飛ばす唾を捉える。
そして『息もできない』は、映画である限り、ある確かな物語を語っている。少しずつその物語の全貌が姿を現そうとするとき、多様に重層している怒りの背景が見え始める。たとえその物語が、かつて映画が語り続けてきた物語とほぼ同じであっても、人はその物語は失望などしない。フィルムの中程になると、人はこのフィルムの物語を予知するし、その予想は外れない。だが、このフィルムに盛られた物語が典型的であったとしても、類型的であったとしても、フィルムの表層に刻まれた底知れぬ怒りに満ちた暴力は、人の眼差しと捉えて放さない。驚くべきは、このフィルムがヤン・イクチュンの処女長編であることだ。主演も脚本も担当するこの若者は、この処女長編から、映画が備えている大きな力をごく自然に捕らえてしまっている。多くの映画作家が長い修行の期間を経てようやく到達できる場所に処女長編ですでに達している。
登場人物の突然の感情の噴出をこれほどの強度を捕らえることのできる処女作があったろうか。このフィルムは主人公のサンフンとヨニを中心に組み立てられているのだが、その周囲にいるどの登場人物にも演出の力が等価に向けられている。サンフンの姉の息子は、サンフンを父のように慕っているが、チンピラのサンフンがその子のもとから立ち去ろうとするとき、「行かないで! 行けないで!」と懇願する。なぜその子どもがそう懇願するのかを説明することはできるだろうが、それ以上に映画にとって重要なのは、「行かないで!」という感情を見る者が同じように持つことだ。とりあえずぼくは、この子どもの言葉に深く共感した。そして、そんな共振する力を持っているこのフィルムに深く感動した。
nobody issue33 ではヤン・イクチュンのインタヴューを掲載!
シネマライズ他、大ヒット上映中!!
4月17日(土)より、新宿武蔵野館、吉祥寺バウスシアターでも拡大公開!!