« previous | メイン | next »

May 13, 2010

『勝利を』マルコ・ベロッキオ
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 この驚嘆すべき傑作『勝利を』を目にしてから随分と日が経ってしまったが、いまだその衝撃から逃れられていない。今すぐにでももう一度スクリーンでこのフィルムを見直してみたい欲求に駆られている。このフィルムについての熱狂は様々なblogやTwitter上で目撃したが、その熱狂がこのフィルムの公開へと繋がることを願ってやまない。
 少なからぬ人々がベニート・ムッソリーニの愛人のひとりイーダ・ダルセル=ジョヴァンナ・メッゾジョルノの姿に、『チェンジリング』のクリスティン・コリンズ=アンジェリーナ・ジョリーを重ね合わせたことだろう。ほぼ同時代を背景にして、権力との苛刻な闘争に身を投じた女性を映し出すこの2本のフィルムは確実に共鳴している。けれどもコリンズ夫人の「この子は私の子ではない」という叫びが母-子という血の正当性を正面から語りかけるものであったことに対し、「私はムッソリーニの妻であり、この子はムッソリーニの子である」というイーダの孤独な叫びは、あくまで男-女の「不実」な関係をめぐる音響であるということには耳を傾ける必要があるだろう。
 論戦の繰り広げられている部屋の上窓によじ登ってその顔を見つめ、怒号の鳴り響く集会の最中に口づけを交わし、そして暗い部屋のベッドの上で野獣のように抱き合ったはずの男は、いつしか女には決して触れ合うことのできない人となり、その顔を見つめることさえ容易でなくなってしまう。実際にこのフィルムの後半部において、フィリッポ・ティーミ=ムッソリーニはその画面から姿を消し、私たちが、そしてイーダが目にすることができるのは、記録映像の内部に映り込む現実のムッソリーニの姿だけとなる。『勝利を』において「ムッソリーニ」とは、映像に憑かれた人物であり、映像そのものに変貌してしまった人物であり、そしてあらゆるものを映像化する存在でもあるだろう。冒頭の「天啓」についてのペテン以来、彼は自身をイメージ化する作業に没頭する。バルコニーの先に彼が見つめる民衆の「映像」は、彼にとっては妄想ではなく、来るべき未来そのものであった。彼にはもはや現実と映像の境界など不要だ。すべては現実であり、全ては映像である。「ティーミ=ムッソリーニ」が「映像=ムッソリーニ」へと変貌を遂げるまでのプロセスが、このフィルムの前半部におけるほとんど時代錯誤とも言えるモンタージュの洪水にはありありと浮かび上がっている。
 イーダという人物がそこで「狂人」とみなされ、あるいは「幽霊」と呼ばれるのは、彼女だけがその「映像」そのものとなり果てたムッソリーニと確かな関係があるのだと、そう語って譲ろうとしないからだ。獣のようなセックスの最中に女の顔ではなく中空を見つめるその眼の異様な強さ――たとえば『ミュンヘン』におけるエリック・バナのその虚ろさとは遥か対極にあるものだろう――からすでに、「特別な人間」としてのムッソリーニにしてみればイーダという女は革命の隙間に挟み込まれた「慈善事業」の相手でしかなかったのかもしれない。けれども、イーダは自身の「不実」そのものとしてのイメージをムッソリーニという絶対者に並置することを決して諦めず、譲らない。世界の「正しいイメージ」に対する「ノイズ」そのものとしてのイーダを、そしてその子供を徹底してスペクタクルの社会は拒絶する。
 その拒絶に対して、抵抗そのものとして織りなされるイーダ=ジョヴァンナ・メッゾジョルノのあらゆる運動は美しい。彼女ばかりではなく、精神病院に隔絶された無数の「ノイズ=患者」たちの織りなす運動は美しい。鉄格子の上を昇り上がる彼女が文字として託した「声」は、無残にも打ち捨てられてしまうだろう。あるいは、「正しい」イメージを継承したはずのその息子は、必死に自身の正当性の証明を図ろうとするも、それは出来の良い物真似としてしか受け入れられず、彼もまた「ノイズ」として排除を余儀なくされてしまうだろう。それでもなお、その目に漂う澱みを貫くこと。
 映像が権力との危険な関係を結びつつあった時代を舞台に、『勝利を』は映像が今日もなお現実に対して持ちうる危うさについて語るとともに、同時にそれに対する抵抗の術の可能性について、力強い実践を私たちに垣間見せてくれるフィルムだ。この世界において、真に「勝利」と呼ばれうるべきものとは何か、それについては「わからない」と答えるほかない。けれども、息子の不在を確認した後に自動車に乗り込んだイーダ・ダルセルの横顔は、クリスティン・コリンズ夫人が「希望」と呼んだものに限りなく近いものであったように思えた。

イタリア映画祭2010