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May 28, 2010

『音の城 音の海 SOUND to MUSIC』服部智行
田中竜輔

[ cinema ]

 知的障害を有した人々と音楽家・音楽療法家たちが未知の音楽を求めて即興演奏を行うワークショップ「音遊びの会」、そこを初めて訪れた際に大友良英氏が発言していた、「「空調の音」を「音楽」として聴くことができるかどうか」という問いかけは、オーケストラの演奏や3分間のポップスを「音楽」として聴くことができるかという問いと、本質的には同じことであり、とどのつまりそれは「音楽とは何か」という根源的な問いへと通じることになる。とすれば、もちろんこのフィルムもまた、「映画とは何か」という問いを無視することはできないはずだ。
 前半部の「音の城」、「旧乾邸」を舞台とした形式のない演奏会を収めたパートにおいては、その構図や照明などの要素から、「映画的」と呼んでしまいたくなるような瞬間や「美しい」と表現してしまいたくなるような場面が幾度もあった。それに対して後半部のコンサート形式で開かれた「音の海」ではそういった映像は影を潜め、目の前で展開されるさまざまな演奏にひたすら向き合うだけのシンプルな画面がその中心となる。これはどちらが良い悪いという話では全然ない。そうではなく、「音の城」と「音の海」を映し出した映像の間には、「SOUND」と「MUSIC」の間に存在するだろう差異にきわめてよく似たものが保持されているように見えるということだ。ある「映像」を「映画」として見ることができるかどうか、という問いが、「音の城」と「音の海」との間では明らかに変質しているように見え、それが人々が音楽を創造する過程とシンクロしているように感じられたのだった。
 たしかにここには映像に対する態度の変質が生まれている――けれども、このフィルムはそのような問いを徹底的に突き詰めるという方向性に向かうわけではない。それよりも目の前に展開する「音の海」のコンサートをそのままに映し出すことに集中し、そして素晴らしい瞬間を幾度も捉えることに成功している。おそらく最も感動的なシーンのひとつが、あるひとりの少年が「音」に全身を浸して自身の身振りを生み出し、そしてその身振りをもって「音」を統率せんとし、さらには自らも「音」を生み出すひとりとなる、音楽の場を自由に越境し拡張していくシーンだろう。演奏終了後に満面の笑みを浮かべた大友氏と彼が手を打ち合わせる瞬間には心震えた、本当に素晴らしい演奏だった。
 服部監督は「ドキュメンタリーも即興演奏と同じで、撮影のやめどころが難しいのですが、現在の音遊びの会のゆくえも、まだ目が離せません」と述べており、このフィルムの続編の可能性を示唆しているが、『音の海 音の城』にはまだ十分な余白があるのではないかと思う。おそらくは「音遊びの会」の持ちうるそれと同じくらいに。


5月29日 渋谷アップリンクXにて公開