『ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実』ピーター・デイヴィス高木佑介
[ cinema ]
アフガンやイラク戦争を経てきたいわゆる9.11以降のアメリカで、再び注目を集めているというヴェトナム戦争を巡ったドキュメンタリー作品がここ日本でも公開される。政府高官やヴェトナム帰還兵たちの証言がニュース・フィルム映像を交えながら映し出されていくこの作品が製作された期間は1972年から2年間――つまりナム戦の終結前夜、アメリカが“名誉ある撤退”に奔走していたとき――である。ということは、すでにこのフィルムが製作されてから30数年の時が流れている。しかし、だからといって現在こうして積極的な評価が再燃していることが納得し難いものでは決してない。それはもちろん、この映画が映しだす映像の生々しさが現在でもなお色褪せていないからでもあるし、と同時に数々の証言者たちに向けられるキャメラが、単に観客たちの反戦感情を強く煽るような自己主張をするのではなく、あくまでも冷静な立ち位置に留まっているがゆえにある種の普遍性を保っているからでもあるだろう。その普遍性を、この映画の持つ強度と言い換えてもいいかもしれない。
この作品を鏡にしてみるとヴェトナム戦争のすべてやいまの世界がありありと見渡せるようになると言えば嘘になるが、しかし、時代と状況が変わっても現在と呼応する点は多いのではないか。ブッシュ政権が推し進めてきた戦争はゼロ年代が終わっても未だ終息せず、ヴェトナムでの“アカ”との戦いがそうであったように、“テロ”との戦いという当初の大義が次第に薄弱化しているのは明らかだ。ビンラディンは捕まらないし、大量破壊兵器も見つからない――もちろんそれは止まることのないグローバリゼーションがでっち上げた建前でもあるが、ひたすら疲弊感と閉塞感がつのるばかりだ。そうなると、やはりアメリカが負けはしなかったが勝ちもしなかった手痛い記憶としてのヴェトナムの亡霊が甦ってくるのはごく自然なことだろう。永遠の帰還兵であるランボー=スタローンは映画で単純かつ豪快に帰還してみせてしまったが、それこそ『リダクテッド 真実の価値』(07)や『ハート・ロッカー』(08)などは、もちろん表面的な色合いは違えども、『ディア・ハンター』(78)に漂っていたような不条理やパラノイアといった影に接近していた作品であったと強く感じる。ヴェトナムを「教訓」にすると言っても、戦争は本質的に不条理で反倫理的なものであるとすれば、その大枠のなかではどの戦争も所詮は大差ないのではないか。
この映画を見ていて、2年ほど前にサンフランシスコあたりからL.A.までアムトラック列車で移動していたときのことを思い出した。その車内で僕はモンタナ州から来たという中年の白人女性とよれよれの服を着た元ヴェトナム帰還兵の爺さんに出会ったのだ。田舎でピアノ教室を開いているというその女性はフォーク・ミュージシャンをしている息子に久しぶりに会いに行くところだととても嬉しそうに話していたのだが、でもイラクに出兵しているもうひとりの息子のことが心配なの、と聞き取りやすい英語で僕に教えてくれた。どうやらその息子はもうすぐ帰国できるのだけれど、またすぐにイラクに戻るつもりでいるらしいとのことだった。そこに、「Army」や「iraq」という言葉を聞きつけた元軍人の爺さんが缶ビール片手に現れて、「むかし俺はヴェトナムで戦っていたんだ」と話に加わってきた。途中から会話を聞きとるのに必死だったけれど、ピアノ教師の女性が彼に「お勤めご苦労さまでした」というようなことを言っていたのが強く印象に残っている。恥ずかしながら、僕はそこではじめて自爆テロのことを「suicide bombing」と呼ぶということを知り、アメリカが未だ戦時下であるということを実感し、そして彼らが数世代にまたがって何らかの戦争に同時代人として接していることに気付いたのだった。だから、ヴェトナムもイラクも、すべては地続きの問題なのだ。
映画は終盤、ヴェトナム帰還兵たちの凱旋行進を映し出す。道路の片側には星条旗を振りながら彼らを祝福する人々、そしてその反対側には警官たちと小競り合いをする反戦デモ隊。時代の混乱をそのまま反映するかのようなそんな構図のなかを、アンクル・サムの格好をした男が手を振りながら歩いていく。僕にはどうもピエロにしか見えないが。ところで、列車に乗ってたあの陽気な爺さんはヴェトナムから生きて帰ってきたとき、どんな迎えられ方をしたんだろう。
6/19(土)~7/16(金) 東京写真美術館ホールにて『ウィンター・ソルジャー ベトナム帰還兵の告白』と同時ロードショー