『あの夏の子供たち』ミア・ハンセン=ラブ梅本洋一
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このフィルムの物語について記すと、インディーズ系の映画プロデューサーの自殺とそれ以後の家族の物語ということになる。ミア・ハンセン=ラブの長編第2作にあたるこのフィルムは、彼女の処女作のプロデューサーになるはずだったアンベール・バルサンが突然自死を選んだことから想起されたという。確かにアンベール・バルサンの自殺というのは大事件でもあったけれども、このフィルムに描かれているのは、今世紀の映画が背負わなければならない多様な経済的な束縛といった問題ではまったくない。
優れた仕事をした家庭の夫の自死とその後の家族のこと──このフィルムが描いているのはそれだけのことだ。そして3人の娘と妻は、夫と共に住んだパリを離れて、妻が生まれ故郷であるイタリアに移る。ただそれだけだ。夫が自死を選ばなくても、たとえそれが事故死や病死であっても、家族が辿る経緯は同じだろう。このフィルムにとって自死は決定的ではない。つまり、このフィルムは敏腕プロデューサーが自殺を選ばざるを得ない映画と社会状況を描くのではない。確かにフィルムの前半こそ、それらがやや詳細に説明されてはいるが、重要なのは、夫の自死によって変化していく家族であって、なぜ夫が自死を選ぶのかという理由ではない。次第に経営が苦しくなっていく夫の制作会社の様子を見せながら、その会社に集う人々が導入され、紹介される。夫が自死を選んでからは、その人々と、妻との関係、子供たちとの関係が、とても誠実に示されていく。
このように書くと、「誠実に示されていく」という一文を除いて、このフィルムが退屈であるかのように読めてしまうかも知れない。フィルムの半ばである決定的な事件が起こり、その事件をきっかけに、人々の関係がどのように変わっていくのか、そして、死んでしまった人の存在が、残された人たちにとって、どれだけ大きかったのかを、このフィルムは、多くの言葉と──つまり台詞と、そして演出だけで示してくれる。これは素晴らしいことだ。事件以後のそれぞれの人々の人生を等価に、そして同じ重さで見せてくれる様はまるでチェーホフのようだ。たとえば、自死を決意する前に、夫は新人のシナリオを読み、その出来に感銘を覚え、それを書いた若い男を励ます。だが、もちろん、夫の自死によって、このシナリオが日の目を見ることはなく、アシスタントの手から若い男に虚しく突き返される。そのとき、若い男は、プロデューサーの長女とすれ違う。そして、ふたりは映画館で偶然出会い、映画についての長い対話をする……。若い男がどんな映画のシナリオを書いたのか、それがどのように夫の手に渡ったのか、そもそもこの若い男はどんな人なのか──それらについて、このフィルムは、まったく説明してくれないけれども、「ぼくは、ずっとこのシナリオを諦めていない。もう8稿めだよ」と長女に語る彼の言葉で、彼の映画に対する態度を納得する。
残された家族ばかりではなく、多くの人々がこのフィルムを横切っていく。それぞれの人生を抱えたまま。だから、ラストの「ケセラ・セラ」には、みんな泣いてしまう。
5月29日(土)より恵比寿ガーデンシネマにてロードショー