『テト』後閑広田中竜輔
[ architecture , cinema ]
このフィルムが私たちに明瞭に提示してくれる最初のことは、水に濡れたパラシュートはとても重い、というごく単純な事柄である。何らかの理由でパラシュートによる降下訓練に臨まされた国家諜報員見習「テト」が、沼地に足を取られつつ着水したその場所から陸地までそれを引き摺る冒頭のシークエンスから、私たちはその大きな布の重みを見てとることができる。そんなものを実際に引き摺った経験など誰にでもあるわけはないというのに、その重みを想像することが可能なのは、しかしなぜなのだろう。ここには「水に濡れたパラシュートは重い」という事態を、経験によるだけではない別の方法で指し示すための運動というものが少なからず生起している。現実の事物そのものと、それを映し出すという行為の間に生起する「何か」が、おそらくこの「重み」を「見る」ということを可能にしている。
そう考えたとき、このフィルムのもうひとつのその「何か」にかかわる物体である、パラシュートと同じように海面に浮かびあがっていたあの赤茶けた地球儀を見逃すことはできない。こちらは一見したところほとんどその「重み」は「ゼロ」に等しい。この球体に「テト」はなぜ執着するのか、眼前に広がっているはずの広大なる「世界」にほとんど関心を持たないように見える彼が、なぜこんなものを後生大事に抱えることができるのか。この球体の「重み」を「見る」ことができる彼の存在とは一体何なのか。
結論から述べてしまえば、「テト」が、そしてこのフィルムが直面しているその「何か」というのは、あの「フィクション」と呼ばれる厄介な代物のことなのだ。現実そのものではないが、しかしたしかに現実に接した所に生まれる、あの魅惑的な力。このフィルムで「テト」が直面するあらゆる「謎」や「陰謀」や「秘密」といった「フィクション」は、モロ師岡によって進められる諜報部の「テスト」という形式の内部においては彼の能力を測るためのたんなる障壁に過ぎないかもしれないが、「テスト」を超えた領域においては、それは彼自身を丸裸にしていく当事者でもあるのだ。
孤児ばかりで結成されたアングラ演劇集団の内部に潜入する中で、「テト」はいつの間にかその場所に取り込まれ、その謎めいた代表を自身の姿と重ね合わせ、やがて引き裂かれてゆくことになる。その過程の内部で、「テト」は世界のひとつの「フィクション」を演じる姿としての地球儀に自分の姿をそのまま重ね合わせている。様々な関係性に取り込まれることで、いつの間にか自身の「重み」を失っていき、最後には無軌道な「暴力」に襲われるばかりの彼の絶望は深い。「フィクション」とは魅惑であると同時に危険極まりない罠でもある。その裏の裏の裏に潜んでいるかもしれない何かがあると、彼はそう勘ぐって孤独な戦いを継続する。しかし本当にそこにあるものは、馬のマスクの下に隠れた少年たちのニキビ面と大して変わるものではない。彼が真に困惑しているのは、まさしくその表面そのものの混濁した様相なのであって、その裏側に隠れた何かではないことをこのフィルムははっきりと表明する。
そのとき、このフィルムを「フィクション」という力に接することについてのある種の「混迷」や「苦難」についてのみ映し出した作品だと、そう断じてしまうことはできない。ここにはそれに対する大きな希望が、あるいは野望と呼び変えられてよいものが賭けられてもいるのだ。それは、「猫の自殺」というひとつの紛れもない「フィクション」を自身の絶対的な糧として、そして武器として無数の影に拳を振りかざす女子高生ボクサーを演じる安藤サクラの姿にある。フィクションの内部に身を落ち着かせるのではなく、フィクションをもってそれ自身を打ち破るような瞬間の創造、彼女の存在に――あるいはその圧倒的な「眼」に――賭けられていたのは、おそらくそのようなものだったのではないか。しかし残念ながらそのような「野望」はまだ『テト』においては結実してはいない。安藤サクラのパンチの「重み」は、決定的な一打として「テト」に、このフィルムに亀裂を入れるまでには、まだ達してはいなかったように思えた。けれどもそのための「胎動」はたしかにここに疼いている。
迷路のようなフィクションとの葛藤を終え、再び地を離れたセスナに乗り込んだ「テト」は、次はどんな場所へ落下して、どのような「重み」を背負うことになるだろうか。
GEIDAI-CINEMA #4 /GEIDAI-ANIMATION 01+
2010年6月19日(土)~7月2日(金)連日21:00より渋谷ユーロスペースにて開催!
本作『テト』は6月20日(日)、6月29日(火)上映予定
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