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June 18, 2010

『夜光』桝井孝則
松井宏

[ cinema , cinema ]

桝井孝則監督の2009年作品『夜光』。その51分のなかでは、ある風通しの良さ、というか解放感のようなものが本当に強く感じられる。そして見るたびごとに、この印象は増すばかりだ。その理由を考えてみた。そしてこう言ってみようと思った。つまり、まさしく「無垢」こそをこの作品が提示しようと試みているからだ、と。
 けれど無垢とは何だろう。それは生まれつき与えられたお気楽なものでもないし、単純さや素朴さでもない。この作品に誰もが認める、異質な抑揚(抑揚がない、とも言えるだろうか)とリズムを持つ役者たちの発話、ほとんど不動のまま言葉を発するそのからだ、突如はじまるモノローグや朗読、あるいは、そんな彼らを切り取るほとんど不動のフレーム。いわゆるリアリズムからは遠く離れたそれらの演出は、自然さやら素朴さ、単純さやらナイーブさなどとは無縁だ。
 たとえばこれは物語でも同様だ。都会に暮らす若いカップル。ふたりともバイトや派遣で何とか生計を立てつつ、でも忙しさのなかで「やりたいこと」を見失い、生活と仕事の分離に追い込まれている。そんなとき男は、「やりたいこと」だったカメラをふと手にし、またふと農業に興味を持ち、やがて実際に自ら畑で働きはじめる……。ここには、もちろん、失われた無垢を自然回帰によって回復する、などという体の良い詐欺は皆無。都会を否定して自然へ(その逆でもいいけれど)といった類いの否定の力に、『夜光』はかかずらわない。代わりに女はこう言う。「都会のなかでも自然のなかでも、みな仕事に追われている」。男は応える。「でもいったい、誰が、何が、そんな状況に追い込んだのだろう?」。
 いったい何が世界をこんな状況に追い込んだのか。そう思考することで男と女は、そして『夜光』は、自分と他者を含む世界を、じっくり見すえる。そのとき目指されるのはもはや自己否定でも他者否定でもない。重要なのは、そんな否定的な力を改めて肯定的な力に変えること。すなわち、他者へのおおきなやさしさへと変えることだ。それも、「君はいまのそのままでいいんだよ」なんて詐欺を呟くのじゃなく、君にはまだ知らない力が、美しさが備わっているんだと、それを他者に向けて、自分に向けて、ひいては世界自身に対して伝えること。あるいはその力や美しさを引き出してやること。おおきなやさしさとは、そういうものだ。
 たとえば桝井監督の語る「そのひとのもっとも美しい声」とは、まさにそのようにして獲得されるものである。「『夜光』において僕が一番意識していた事はその人の最も美しい声を示すことです。本人も気づかなかった自分の声を聞くこと」(『夜光』公式HP掲載の葛生賢氏によるインタヴューより)。役者たちが言葉を血肉化し、まさにからだが話すようになるまでは困難で長い共同作業が必要だったようだ。それはほとんど、役者と監督との文字通り熾烈な持久戦の闘いでもあったはずだ。そう、だからおおきなやさしさには闘いが不可欠。「もっとも美しい声」を獲得するにはどちらが欠けてもダメなんだ。
 そうだ。だからこう言えるのだ。無垢とはまさしく、この「もっとも美しい声」なのだ。それはつねに持久戦のなかで、一瞬一瞬闘いとらねばならない。最初に記したような『夜光』の厳格な形式は、まさにその闘いに必要な強さであり力だ。そしてまた無垢とは、おおきなやさしさだ。世界を肯定する力だ。そしてそのためには自らの、他者の、そして世界自身の「もっとも美しい声」が必要だ。重荷を背負わされ抑圧された駱駝から、他者を否定して自ら支配者となろうとする獅子へ。ツァラトゥストラさんがかく言うように、精神の三段変化の最後とは、幼な子=無垢への生成である。

「幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ」。

 あるいは無垢とは、物事を別様に照らし、別の見え方を提示する光そのものだ。『夜光』が目指すのは無垢である。『夜光』は映画を忘却し、それによって世界を肯定しようと試みる。だからこそ、どこまでも解放感に満ちた作品なんだ。

UPLINK X(渋谷)での「関西映画特集」にて上映。6月20日(日)18:20〜/ 25日(金)17:00〜