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July 17, 2010

つかこうへい追悼
梅本洋一

[ book , theater ]

 つかこうへいが亡くなった。アングラ御三家(唐十郎、佐藤信、寺山修司)の活動が、戯曲の内容の面でも、上演形態の面でも反=新劇という枠組みで語られることよりも、それぞれの演劇上の個性として分析されるようになった時代に、つかこうへいが登場した。70年代初頭のことだ。平田満や故三浦洋一の演技と共に、『郵便屋さんちょっと』『熱海殺人事件』などごく初期の舞台が懐かしくなった。強烈な通俗性と同時代へのパロディを含んでいたそれらの戯曲と、平田や三浦の演技の様式(おそらくつか自身が考案したものだろう)が結びついて、早稲田大学6号館最上階になぜか存在していた小劇場に集まった若い観客は大いに笑った。アングラ御三家に比べて単に分かりやすく、同時にアクセスに危険が伴わなかったからかもしれない。つまり、アングラ御三家の舞台は、つかのそれに比べてずっと「危険」だったのだ。
 唐十郎と状況劇場を見るために、あの仰々しい赤テントに入らなくてはならず、演劇センター68/71の黒テントの芝居を見るためには、地図を頼りにどこあるか判明しがたい黒テントが立てられている広場を探し当てる必要があった。そして寺山修司のある芝居は、東京某所が集合場所とされていて、そこに○時○分に集まると、天井桟敷のメンバーがやってきて、ぼくらを別の場所へ連れて行くのだった。つまり、芝居の参加するぼくらの運命は、芝居に参加するまで分からない。だから「危険」だった。それに対して、つかこうへいの芝居は、ぼくが籍を置いていた大学の校舎で行われていたし、その場は、校舎の中だったが、演劇サークルが使っていた雨風をしのげる小劇場だった。
 赤テントの芝居には必ず神話への誘いがあり、黒テントの芝居を理解するためにはやはりブレヒトは読んでおいた方がよかったし、天井桟敷の芝居は寺山修司の全体とシュールレアリスムは知っておいた方がよかった。演劇は戯曲という物語であるのと同時に、劇場と上演形態、演技といった形式でもあり、少なくともアングラ御三家の芝居は、明瞭にそのことを意識していた。だが、つかこうへいの舞台には、演劇という形式への考察はいっさいなく、戯曲とそれを演じる俳優たちの演技しかなかった。客席に白石加代子などがいたVAN99ホールで初演された『ストリッパー物語』には、根岸季衣のフレッシュな身体があって、ものすごく感動したけれども、芝居がこんなにメロドラマなだけでいいのだろうか、と考えてしまったことも本当だ。
 つまり、新劇以降のアングラ御三家までは、演劇は何よりも形式の問題だったが、つかこうへいの時代が来ると演劇とはまず戯曲であり、形式の問題を考察する場ではなくなった。小劇場運動が極めて若い観客を集め、観客たちが大いに笑うようになったのは、明らかにつかの時代からだ。その後、つかこうへいは直木賞を受賞して舞台から遠ざかるが、しばらくして舞台に復帰すると、彼の仕事は自らを形式化することだった。新たな戯曲を自らの俳優の身体に乗せていくのではなく、かつての戯曲を、新たな俳優たちによって改編していくことが彼の作業の中心になっていった。そのころ、たとえばぼくはつかこうへいの舞台を見るのをやめている。そしてつかこうへい以降、日本の若い演劇が、戯曲という物語以外にも多くある演劇の形式そのものを思考することが、ほとんどなくなったようだ。アルトーやブレヒトといった固有名はアングラ御三家と共に忘れられていき、新劇はますます形骸化し、小劇場はアマチュア化の速度が速まったようだ。