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September 13, 2010

クロード・シャブロル追悼
梅本洋一

[ architecture , cinema ]

 9月12日にクロード・シャブロルが亡くなった。リベラシオン紙は、「フランスは、自らの鏡を失った」(オリヴィエ・セギュレ)と書き、レザンロキュップティーブルのサイトも「フランスは、その最良の肖像画家を失った」と書いている。自らが属するブルジョワジーへの表裏一体になった愛着と嫌悪が彼の作品の多くには噎せ返っていたし、『美しきセルジュ』以降、70本ほどになる数多い作品で、彼が描き続けたフランスの地方の変わらぬ居心地の悪さは、「フランスの鏡」であり「肖像画」であることはまちがいない。そして、多くの追悼文が書くとおり、シャブロルは、決して前衛的ではなかったが、ヌーヴェルヴァーグの映画作家たちの中で、自らの作品を撮ったのも、最初に書物を出版したのも、「カイエ・デュ・シネマ」誌に執筆したのも一番最初だった。
 そして彼はしばしば映画雑誌以外のメディアにも登場した。その登場の仕方は、もちろん映画監督としてではあるのだが、日本の女性が読むような雑誌のパリ・ガイドに必ず掲載されている「パリのお昼ご飯ガイド」の類にも、マレ地区の某ビストロでは、毎日、クロード・シャブロルが食べに来る、といった具合に。不思議なことに、そうした雑誌で紹介されるシャブロルが好んだ料理は、シンプルな肉料理ばかりで、魚料理が紹介されることはなかった。彼が傑作『肉屋』を撮ったからだろうか。料理の写真(ジゴなどが多かったように記憶している)と共に、小太りのシャブロルが新聞を読みながら、ひとりでテーブルに向かっている写真が添えられているのが常だった。ぼくも、そういった記事を参考にシャブロルの好んだ(と書かれている)ビストロで昼食をしたことがある。例外なく美味しかった。そして、シャブロルのフィルムには、多くの場合、必ず食事のシーンがあった。
 そう書くと、彼は極めてフランス的な映画作家だったと思われそうだ。間違ってはいないのだが、彼の作品で見せるブルジョワジーへの姿勢と同様、彼のフランスも両義的なものだ。たとえばマルセル・パニョルのようなフランス性を彼のフィルムが垣間見せることはない。『美しくセルジュ』の田舎町の閉鎖性は、それを外部から描くがゆえに表象されるものではなく、その内部に入り込むことで開示されるものだったように、『いとこ同士』のパーティーで大音響で聞こえてくるのが同時代のシャンソンではなくワーグナーだったように、シャブロルのフランスには、必ず距離がつきまとい、その距離こそがシャブロルの冷徹な演出を稼働させていた。冷徹な演出を稼働させるその距離は、確かにフランス映画の中では極めてユニークなものだ。それは、ルノワールにもトリュフォーにもないし、世界で初になるヒッチコックのモノグラフィーを共に執筆したロメールにもない。おそらくその距離は、アメリカに亡命して以降、フリッツ・ラングが多作した犯罪映画におけるアメリカへの距離と同質のものだろう。フランスではブルジョワの職業である薬屋に生まれたが、薬学を捨てて映画作家になり、マレ地区のビストロでジゴを食べて、そのおいしさが浸る自分自身に嫌悪感を持つシャブロル。シャブロルのフランスは、だからフリッツ・ラングのアメリカと同じだ。