『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』瀬田なつき梅本洋一
[ book , cinema ]
かつて、『女は女である』でジャン=クロード・ブリアリとアンナ・カリーナが住むアパルトマンには自転車が置いてあった。かつて、母娘に扮した桜田淳子と田畑智子は、相米慎二の『お引越し』で乗る電車の中で「ある日、森の中……」とクマさんの歌を唄った。黒沢清の『回路』でしばしば映るビルの屋上からは、東京の「意気地なしの風景」が映り込んでいた。映画には、そうした無数の「かつて」がある。映画的な記憶と呼ばれたこともある、それらフィルムの細部は、映画の空間と時間とつくっていた。新たな作品とは、それらのフィルムがつくってきた空間と時間の先端にあらねばならない。映画が単にエンタテインメントであるばかりではなく、もし芸術でもあるとすれば、絵画に絵画史があり、文学に文学史にあるように、新たな作品は、必然的に歴史を背負って生まれてくる。野心的な作品であるならば、どうしても歴史と向き合うことを余儀なくされる。それは重い義務だ。そうした芸術の歴史が、新たな作品を迷宮に送り込み、世界を狭くしてしまうこともある。歴史という重みが、まるで作品に新鮮な空気を送り込むのを拒むように。
もちろん歴史があることはよく知っている。新たな作品とは歴史を乗り越えねばならないことも承知している。だが、それを乗り越えるために、歴史の重さを感じなければならないのか。窒息するような重苦しさを感じながら、歴史と対峙しなければならないのか。別の方法はないのか。重さに与するのではなく、もっと軽く、中空を浮かぶような軽さで歴史と戯れながら、新たな作品を現在時制の中に置くことはできないのか。瀬田なつきは、そんなことばかり考えながら常に新たな作品を生み続けているように感じられる。むろん作り手の意思とは関わりなく、作品は重みを帯びてしまうこともある。知らず知らずのうちに迷宮の中に墜落してしまうこともあるだろう。
だが記念すべき長編第一作となる『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』で、瀬田なつきは、軽さを武器に歴史の先端に立つことに見事に成功した。暗く荒んだ物語を語りながら、暗さと荒んだ世界に対抗するには、徹底して「軽さ」を信じるしかないと何度も自らに語りながら、その「軽さ」を作品の力学の面でも造形の面でも、それこそ軽々と実現して見せてくれた。新たな作品としての資格を得るには、「嘘だけど」、嘘かも知れないけれども、この「軽さ」を信じて、「軽さ」に導かれることで、ハッピーエンディングまでたどり着くしかない。染谷将太が演じる「みーくん」の徹底した軽さ──それは文字通り、中空を何度も浮かぶほどの軽さだ!──によって、この物語が背景としている歴史という惨劇を乗り越え、その惨劇の結果残された累々とした屍体の山をも乗り越え、生への根拠なき確信へと接続されていくまでの顛末、それがこの作品である。