プレミアリーグ10-11 チェルシー対アーセナル 2-0 梅本洋一
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どうしてアーセナルはチェルシーに勝てないのか? モウリーニョ時代は、その問は繰り返されている。モウリーニョがチェルシーの監督だった時代なら、アーセナルの選手は若くてナイーヴであって、チェルシーの老練さにはかなわない、という言い訳が常套句だった。だが、あれから何年か経ち、アーセナルの選手たちも、入れ替わりがあるので若いことは若いが、すごく若いわけではない。それなりの経験も積んでいる。
そして、今シーズンのスタンフォード・ブリッジのアウェイゲームでも、また敗れた。それもドログバの1発がチェルシーの先制点だ。まるでデジャヴュだ!と誰でもが思うが、ヴェンゲルは、そうでもないと言っている。ゲームを支配できたし、ミスがなければ勝てたのだ、と負け惜しみを言っている。確かにコシエルニのヘッドもシャマクのヘッドも、ノーマークなのに枠を捉えない。アルシャヴィンやナスリのシュートも思い切りが悪く、ツェフに簡単にセーヴされてしまう。そして、多くはないがチェルシーがアタッキング・サードに入るときは、スキラッチ、コシエルニの線の細さに、思わず「危ない!」とどこかで声が聞こえる。チェルシーのテリーとアレックスは、どっしり構えているし、ミケルにしても、ソングよりは安定感がある。
アンリやアデバイヨールのような決定的なフォワードがいなくなってから、アーセナルは、全員が似たような選手になっている。ヴェンゲル好みと一言で片付けられそうだが、平均的なスキルは高度になっているが、個性が乏しくなっている。たとえばマンUと比較すれば対照的なのが分かるだろう。ルーニー型もベルバトフ型もいないし、ギグスやスコールズの老獪さは、アーセナルにあった例がない。バックラインにも、ギャラスが去ってから、厳つい選手がいなくなり、全員が読みと速度で勝負するバックライン。ドログバのような、気持ちもフィジカルも強い選手はもっとも苦手だ。
アクセントを付けられるのがセスクのパスセンスとウォルコットの速度──今年はもうひとりアクセントを付けられるアルシャヴィンの動きにキレがない──だとすれば、両選手の欠場は痛い。ファン・ペルシも欠場、そしてファン・ペルシの控えとも言えるベントナーも欠場。その故障者リストにおいて枚挙に暇のないアーセナルに比べてチェルシーはランパードを欠いているだけ。だから、それでもゲームを支配できたのだから、ヴェンゲルの負け惜しみも理由のないことではない。
つまり、今の面子で頼れるのは、今年は調子が良いロシツキだろう。だが、今年のロンドン・ダービーでは、ヴェンゲルは、ウィルシャーとソングにセントラルを任せ、ロシツキが出たのは、結局、精彩を欠いていたディアビが退いた70分のことだった。ディアビをほとんどセカンド・ストライカーの位置に置いたこのゲームの布陣は、ディアビの不調で失敗だった。トップ下には最初からロシツキを置くべきだったろう。ヴェンゲルは、いつものことだが、選手の見切りが遅い。ディアビの不調を見て取って前半だけで彼を諦める勇気があってもいいだろう。今のアーセナルに必要なのは、アーセナルのパスサッカーという型への誘惑よりは、単に勇気を持ってゲームを勝ちきることだ思う。