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November 7, 2010

『愛と憎しみの新宿──半径1キロの日本近代史』平井玄
梅本洋一

[ book ]

 あれは1982年か83年のことだったろうか、新宿2丁目の喫茶店で、今はもう存在しない書評紙の編集者と打ち合わせをしていた。「8面担当」と呼ばれていたその人は、書評紙の編集の仕事は「世を忍ぶ仮の姿」で、本業として「風の旅団」(と言ってももう誰も知らないだろうが、かなり有名で過激な劇団──もちろん「赤い旅団」からの命名だろう)の制作をやっていた。
 その打ち合わせの最中、喫茶店の外を大きな荷台付きの自転車が通り過ぎた。「平井さんだ!」と編集者は、自転車を運転していた男を呼び止め、「平井さん」は、ぼくらの会話に加わった。ぼくは、その「平井さん」が誰だか知らなかったし、そこでぼくらが何を話したかはまったく忘れた。それに、この本を読むまで、ぼくは「平井さん」に実際に会ったことがあることなども、すっかり忘れていた。
 そう、夜半の新宿2丁目で、「平井さん」に出会うのは必然だった。「平井さん」の実家の家業は新宿2丁目の洗濯屋で、彼は注文取りと配達に励んでいたからだ。この本を読んで、ぼくは「平井さん」と新宿についていろいろなことを知った。「平井さん」が家業が洗濯屋であり、1968年に都立新宿高校に入学し、一年上に坂本龍一などがいたこと。だから「平井さん」がこの本を書くのは必然なのだ。この本には、文字通り「半径1キロの日本近代史」が、音響(ジャズが中心)、映像(若松孝二とゴダールが中心)、そして写真(浜昇と迫川尚子)や建築(前川國男が中心)、さらに夏目漱石から自在に語られている。文献的な裏付けもあるが、やはり、ここで暮らし、ここで68年から70年代のもっとも華々しい時代を生きた「平井さん」の実感が、決定的だ。
 そしてぼくは「平井さん」と同じ年に、東京都立青山高校に入った。新宿高校から直線で2キロも離れていないだろう。ちょっと説明が必要かも知れない。当時、東京の都立高校は、学区制と学校群制度が敷かれていて、「平井さん」の新宿高校は駒場高校と組んだ21群(世田谷、目黒、渋谷、新宿で構成される第2学区の1群)であり、ぼくが入った青山高校は、戸山高校と組んだ22群だった。この本で触れられている高校闘争という面で、都立高校でもっとも大きかったのは青山高校だった。ぼくらの高2の2学期はほとんど授業がなかった。(「平井さん」の書く同時代史に大きく共鳴しながらも、読み進めば進むほど、ある種の違和感が大きくなることも告白しておく。その理由は、新宿高校と青山高校を隔てる約2キロの直線距離なのだと思うが、それについて語り出したらきりがない。)
 つまり「平井さん」もぼくも高校時代は異常なくらいに暇だった。もちろん、いろいろ忙しかったのだが、今の受験生のように忙しいのではなく、学校がないがゆえに忙しかったのであり、普通の言い方で言えば、暇だった。だから、この本に出てくる多くのバーや映画館や自主上映会場には実際に行ったことがあるし、「平井さん」が『パルチザン前史』を見た四谷公会堂には、ぼくもその日にいたはずだ。さらに、もちろん同じ日ではないだろうが、この本の冒頭で「平井さん」が触れているゴダールの『ウィークエンド』も、「平井さん」が見た新宿文化でぼくも見た。「あれ以来、私の「ウィークエンド」は終わらないのである。(……)58歳になった今もだ。」この脳天気には我ながら呆れる」と書く「平井さん」の感慨を、ぼくも共有している。
 最近、ある必要があって、リービ英雄の『星条旗の聞こえない部屋』を読み直したら、アメリカ領事の父親が、日本語を学びに、横浜から東京へ行くという息子に « Especially not to places like Shinjuku »と言う件がある。新宿という地名が喚起する力の大きさはそれくらい大きかった。「平井さん」の書くとおり、新宿を詳細に見聞きすれば、日本の近代史を思考できるばかりでなく、同時代の世界へ、新宿という「通底器」で繋がることができた。「できた」と過去形で書かねばならないのはちょっと残念だが、今の新宿にかつての新宿の持っていた「力」はもうない。