10-11大学選手権決勝 帝京対早稲田 17-12 梅本洋一
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早稲田はこういうゲームをぜったいに勝たねばならなかった。
徹底してFW周辺に拘り、ゲームを殺した帝京に対して賛辞を贈るべきではない。10-74という惨敗を喫した明治の吉田義人には、その志の高さに対して、「来年は期待している」と励ましの言葉を贈っても、今日の帝京のゲーム・メイクに対しては、どんな賛辞も贈るべきではない。停滞とデジャヴュが反復するのを目にするのは、スポーツのゲームとしてまったく面白みを欠いている。国立に集まった観衆は、退屈の極みを体験するだろうし、たとえオペラグラスを持参したとしても、同じ背景を持つ停止画像をその中に発見するだけで、スポーツを見る快楽とは正反対の何かがそこに映っているだけだ。単に体重が重く、筋力に優れた者が勝利を収めるのなら、ゲームを始める前から勝敗は決している。
だから、そうした帝京のスポーツの快楽の殺戮に対して、早稲田は、スポーツとは「運動」であり、「運動の中から生まれる未知の時空」であることを身を以て示し、勝利を収めねばならなかった。かつての早稲田ならポゼッションが30%でも、必殺のバックスでトライを重ねられた。高校時代は無名の選手でも、訓練とコーチングを重ねて、大学選手権の決勝にふさわしい選手に成長させることができた。だが、高校ジャパンに選ばれた選手たちをリクルートした今の早稲田の選手たちは、ゲームを有利に進められないことに慣れていない。すべての局面で有利であることが前提条件になっている。それはおそらくコーチの側もそうかもしれない。かつての早稲田なら、今のチームの主力である運動能力が高く、身体能力にも秀でたSOなど夢物語だったろう。逆に劣勢のスクラムから素早くボールを処理できないSHの存在など許されなかったはずだ。存在を誇示するのではなく、限りない「自己犠牲」の重複によってしか、トライは生まれなかった。彼我の比較で優れているのは、戦術眼とプレーの習熟度──それを武器に気持ちで戦ったものだ。
昨日の高校ラグビーの東福岡が同点に追いつき、今日の帝京が勝利を収めるのは、日本のラグビーにとって決して朗報ではない。