『ヒアアフター』クリント・イーストウッド梅本洋一
[ cinema ]
正直に告白しよう。イーストウッド・ファンを自認するぼくだが『グラントリノ』も『インビクタス』もなぜか絶賛することができなかった。『グラントリノ』は俳優イーストウッドの喪の儀式には相応しかったし、それなりに感動したけれども、すべてが「想定の範囲内に収まっていた」気がしたし、肝腎のクルマがあまり好きになれなかった。たとえば『センチメンタル・アドベンチャー』のクルマの方が良かった。そして『インビクタス』を好きになるには、ぼくが余りに強くラグビー・ファンであり、このフィルムの中心に位置するゲームをライヴで見たことがあって、残念なことに、ワールドカップ決勝のライヴのゲームの方が、面白かったからだ。
だから『ヒアアフター』についても、個人的に信頼している多くの批評家が、たとえば「イーストウッドの最良の作品とは言えない」とか「イーストウッドは物語の半分しか信じていない」などと書いたのを前もって読んでしまったせいか、実際にこのフィルムを見るまで、見終わったらちょっと失望するのではないかと心配していた。だが、心配は無用だった。号泣してしまった。
もちろん、死後の世界についてイーストウッドが信じているかどうかなど、このフィルムの価値には関係がないし、ぼくは、恐山の霊媒師を始めとする人々を信じてはいない。だから、おそらく決して出会うことがないだろう3人の主要な登場人物が次第に近付いていく複雑なシナリオ(ピーター・モーガンによるものだが、とても良く書けていると思う)を、いったいどのような演出によってイーストウッドが一本の糸に結びつけていくのか? そして、収斂させていく映画的なエンジンはいったい何なのか? このフィルムの興味をつなぎ止めているのは、そうした関心だろう。その意味で、このフィルムは、『バード』、『真夜中のサバナ』、『ミスティック・リバー』といったイーストウッドが出演していないフィルムの系譜に含まれ、『ミスティック・リバー』のように複数の登場人物を擁しながらも、その背景になる空間がパリ、サンフランシスコ、ロンドンと異なっているので、収斂させていく技は簡単ではない。登場人物たちが、そのように互いを必要としているのか、見る者を納得させるのは、たやすいことではない。
イーストウッドの聡明さは、その結び目に常に「声」を置いたことだ。マット・デイモン(今や完全にイーストウッドに欠かせぬ存在になった)は、「良く聞こえない、はっきり聞こえないが」と何度も口にするし、幼い双子の兄は「お喋りな奴」だし、臨死体験をするフランス女性は、言葉を職業にする「アンカーウーマン」だ。話す内容としての言葉よりも、それを発語する声が、3人を結びつけていく。それが、たとえばマット・デイモンが、眠る前に必ず聞くチャールズ・ディケンズの朗読だし、ロンドンのブックフェアの朗読会へと接続されることになる声のヴェクトルだ。
物語を越えた声によって、主要な登場人物が一同に会し、それぞれの重要な瞬間を迎えることになる。もちろん、彼らの声の彼方に、ぼくらは、イーストウッドのしゃがれた声を聞いていることは言うまでもない。