『悲しみのミルク』クラウディア・リョサ隈元博樹
[ cinema ]
ファウスタ(マガリ・ソリエル)には常に「母性」が依拠しており、彼女という存在は彼女の母から与えられたその一連の系譜から逃れることのできない運命にあるのかもしれない。
とは言うものの、彼女と実母が同じスクリーン上に捉えられるのは冒頭の場面、あるいは遺体となって言語を失ってしまった「以後」にしか二人の女性はひとつの空間をともに生きることを許されてはいない。
しかし息絶えし間際、ケチュア語で紡ぎ出される過去の歌を皮切りに、幼いころからファウスタの膣内に埋め込まれ、今では芽の生えてしまったジャガイモの存在がそうであるかのように常に母が内在し、そして内在していたことを闇に葬り去る時間さえもこのフィルムには用意されてはいない。叔父が経営するブライダルを手伝っているあいだ、たとえ寝室のベッドの下に母ではなく単なる「遺体」として放置されたとしてもそれを必死に探しだそうとするファウスタ。埋葬費をまかなうために裕福な屋敷のピアニストのもとで働き始めるファウスタ。そしてピアニストが座るソファの後ろで「人魚の歌」を再び歌い出すファウスタ…
ファウスタの視線の先には、ペルーの気候豊かな「母なる大地」と拮抗するだけの母へのまなざしがクラウディア・リョサの手によって精緻に捉えられていることは言うまでもなく、『シルビアのいる街で』の撮影監督であるナターシャ・ブレイアのキャメラと被写体によって生まれたこのフィルムのまなざしは、少なくともファウスタの黒々とした肌と、あともう少しで眼にかかりそうでかからない前髪といった身体の表象の細部にこだわることによって、ホセ・ルイス・ゲリンのまなざしとはまったく異なる別個のフィルムとして成立している。
しかしファウスタはジャガイモではなく自身の母の芽に鋭くメスを入れることで、自身に内在する母性とむしろ並置していく道を選択する。たしかに叔父が自宅の庭地をプールとして掘り起こしているところを目撃した瞬間に迫り来る驚異に対しともに息を呑んでしまうのは、「母=遺体」ではない以上彼女だけでなくおのずと我々の驚異として共有せざるを得ないからなのかもしれないけれども、独占されていた母へのまなざしはしだいに屋敷に雇われている中年の庭師にも注がれるようになることで、彼女に宿る母性は自身へ内在するに留まるのではなく、彼女自身が新たな母性となっていくようにも感じられるのである。
広い海を前にファウスタと布地にくるくると巻かれた母の遺体が並んでいる。「母さん、海に来たよ」と彼女が話しかけた相手は、歌うことも喋ることもできない横たわった母ではなく、目の前に広がる灰色がかった遠くの空と海だったのかもしれない。彼女は画面下に再び顔を向けることを選ばない。その新たな「母性」を見つめることが僕らには許されている。
ユーロスペースほか全国順次ロードショー